第四回amazarashiと哲学

こんにちは、筋肉んです

今回は私のエッセイを作るとしたら確実に明記しなければならない曲である、花は誰かの死体に咲くの解説をしたいと思います。
この曲の歌詞はぱっと見かなり二ヒリスティックに見えます。
しかし、よくよく見てみると残酷さ、無常さの中にわずかながらの暖かさが垣間見えます。国歌にして欲しいくらい素晴らしいです。
さて、今回は哲学者ごとに見ていくのではなく、宗教史、哲学史の流れからこの曲の凄さと素晴らしさを見たいと思います。

古代ローマ編

話はまず古代ローマにまで遡ります。
古代ローマではキリスト教が国教であり、いわゆる法律は黄金律、つまり教義によって制定されていました。それだけでなく、人々の生活や職業、考え方、死生観に至るまで全て固定されていたのです。
現代にいる私たちから考えると、職業選択の自由もないし、法律は全くもって合理的じゃないし、少しでもはみ出した考えをすれば爪弾きにされるなんてありえないと思われるでしょう。
しかし、社会制度や物質的な部分ではない、心的な部分においては、現代の私たちよりも保証されていたと言えます。やりたくもない職業に従事することは今も昔も往々にしてあったわけですが、今と昔ではモチベーションの部分が全く異なります。今の私たちは「なんでこんな仕事をしているんだろう、こんなはずじゃなかったのに」なんて考えるかもしれませんが、古代ローマの人々は「神の御心によってこの仕事は割り当てられているんだ、なんて幸せなんだろう」と大半の人たちは考えていました。つまり彼らの人生における行動、道徳、思想は全て神という絶対者によって完璧に保証されていたのです。そして今回の主題である「死生観」も天国という形で祝福されていました。

近代編

時は流れ近代。この時代宗教、哲学史においては激動の時代でした。
それまで人々の心に安寧をもたらし、救ってきていたキリスト教にほころびが出始めます。
産業革命から続く科学技術の発展により、段々とキリスト教のその場しのぎであった部分が暴かれていきます。
そしてついに私たちは、私たちの神を殺すまでに至りました。これで人々は今まで繋がれていた鎖から解き放たれ、自由を勝ち取ったわけです。
が、しかし、人類にはニヒリズムという裏ボスが待ち構えていました。
今まで神が保証してくれていた道徳や生き方、価値観は根拠を失い、究極的な孤独に人類は晒されます。
また、この神の死によって神に保証されていた絶対的な価値観は消失し、他人との差異にしか幸福を見いだせなくなっている人が多くなってきているのも顕著だと思います。これは「僕らの幸福は相対的だった」に見出せます。
ここにきてやっと本題に入れるのですが、これらの孤独や不安定さを克服するための方法として近代哲学は一つの結論を出しました。
それは、究極的なニヒリズムであり、私たちに平等に現れる死の概念の克服です。
しかし、私はここで詰まってしまいました。どう考えてもやっぱり死は怖いし、考えていると虚無感に苛まれてしまいます。
ここでこの曲の歌詞である「今日までに死んだ人の全ての遺体が、土に埋まってんなら、君が生きてる街も世界中どこだって誰かの墓場なんだ。ゾッとしない話だがそれに救われたんだ。」を見てみましょう。
これこそ、死の概念を乗り越える思想として現代人に堂々提示すべきものだと思うのです。
神の死によって失われた私たちの居場所を今踏みしめている大地に見出していて、今まで生きてきた人たちの思い出や悔しさ、辛さが大地に還元されているとと歌われています。つまり「踏みしめている土に宿れ生命賛歌」なんです。
大地や山などに神を見出す信仰は古来からありましたが、絶対者、つまり神を擁立する教義ではまた同じ轍を踏む事になるとニーチェは言いました。
それを考慮しても先の考えでは神ではなく今まで死んで行った人々の思いに拠り所を見出しているため、実際少し形而上学っぽさは拭えていませんが、それでも絶対者としての神よりはずっと良いです。
ただ実際にこの考え方を生きる指針として考えた時、どうしても補いたい部分が出てきます。
この、「実存的祖先崇拝」とでも言うべき考え方はニヒリズムの克服、死の克服に関して素晴らしいものがあります。しかし、今のままでは宗教のもうひとつの側面である価値観の絶対化が不可能なのです。
価値観の絶対化は、死の克服と同等かそれ以上に重要な宗教の役割です。価値観が宗教的機構により保証されれば、人々は他人との差異に価値を見出すことなく創造的な生活を送る事が出来ます。
この価値観の保証さえ出来れば、amazarashi、秋田ひろむは現代に迷える孤独な人々を救う超人となるのだろうなと僕は本気で思っています。僕が生きている間にどうか成し遂げて欲しいと切に願っています。

いかがでしたでしょうか。最後話が少し壮大になりすぎたし、上から目線になってしまってどうしたものかと思ったのですが、勢いで書いてしまいました。現代では宗教という言葉が持つニュアンスに、どうしても胡散臭さが付きまとってしまうので誤解しないで欲しいのですが僕はamazarashiにカルト的なものになって欲しいわけではないです。amazarashiが袋小路に迷い込んだ人々の救いになって欲しい位のニュアンスだと思っていただけると嬉しいです。
話が逸れましたが、この曲ほど上手に分かりやすく実存の完成を表したものは、哲学書にもそうそう無いと思えるほど僕にある種の直感をもたらしてくれました。これを読み終えたあと是非もう一度聞き直して見てほしいです。
次回は「デスゲーム」の解説をする予定です。
ここまで読んで頂きありがとうございました。


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