第三回 amzarashiと哲学

こんにちは、筋肉んです

今回はフィロソフィーの歌詞における哲学要素を解説していきたいと思います。
哲学は英語でフィロソフィー(philosophy)といい、これはフィロソフィアという知を愛するという意味のギリシャ語からきています。この頃から理性至上主義の片鱗が見え隠れしていて大変興味深いのですが、このままでは一生本題に入れないためまたの機会に語りたいと思います。

さて今回は以下の歌詞に哲学要素を見出しました。

「振り出しに何度戻って、歩き出すのも億劫になって」
「死ぬ気で頑張れ死なないために、言い過ぎだっていうなもはや現実は過酷だ」
「謙虚も慎ましさも、無闇に過剰なら卑屈だ」
「うまくいかない人生のためにしつらえた陽光は」
「承認してよ弁証法」
「そもそも僕らが生きていく動機なんて存在しなくて
立ち上がるのに十分な明日への期待それ以外は」
これらの歌詞を哲学家ごとに見ていきたいと思います。

エーミール・シオラン

この曲は冒頭からかなり歌詞が暗いです。
「辛くて悔しくて 全く涙が出てくるぜ」
と人生のうまくいかなさを嘆いています。
ここで登場するのがニヒリスト(虚無主義者)でペシミスト(厭世家)であるエーミール・シオランです。実はこの記事を書こうと思う前は名前を知らなくて、ある方にリクエストいただいたため急いでAmazonで悪しき造物主を買い、急ピッチで読み、今に至ります笑。こういった出会いがあるのがネットのいいところですね。
さて話を戻すと、彼の思想の大半は現実、未来、神、社会、宗教、人間、人生への呪詛で満ちています。人生を生きるということは苦痛で悲痛で悲惨で悲劇的であり、人間は善性など持ち合わせてはおらず悪意こそが普遍であると考えました。
つまり「もはや現実は過酷」であるわけですね。
また、人生は可能性を信じて突き進む状態とそれに挫折してしまい絶望している状態を繰り返す円環構造をとり、死を持って究極的な可能性を十分に達成されることはあり得ないという考え方があるニヒリズムも支持していました。
つまり「振り出しに何度戻って、歩き出すのも億劫」に見いだせます。
ここで注意しておきたいのが、哲学思想は真理ではなくあくまでも思想ということです。名のある思想家が言ったこと全てが正しいわけではなく、哲学は自分の人生を生きやすくするための道具であることを覚えていて欲しいです。なので、今紹介した思想を真理だと思い込み、ニヒリズムに囚われて、無気力になってしまったりすることは大きな間違いと言わざるを得ないのです。

ニーチェ

はい。今回もニーチェです。前回前々回もやったし、なんなら前回なんてほぼニーチェの思想紹介でしかない?僕が大好きだからいいんです☺️
話が脱線しましたが、ニーチェは神の死によるニヒリズムの侵食を止めるすべをこういいました。いつか超人が現れて、神様にもルサンチマンにも頼らず、自分を主体的に生きることができてみんなが納得できるような生きる上での指針を提示すると。
しかしそれじゃあ今までのキリスト教と同じように嘘の指針だった場合また崩壊するじゃないか!と思われるかもしれません。そこでニーチェは、神様やルサンチマンに頼っていないのなら嘘でもいいと言ったのです!!!!!(ここ拍手)
私がこれを初めて知った時それはもう頭を殴られたような衝撃が走りました。嘘でも良いってすごくないですか!?道徳や価値観を疑った彼らしい考え方とも思えます。
それがつまり「うまくいかない人生のためにしつらえた陽光」な訳です。陽光は勝手に射すものではなく自らしつらえるものであると。秋田ひろむすごすぎます。

キルケゴール

実存主義者の始祖でお馴染みの絶望おじさんです。彼はニヒリズムの克服を現実の辛さを受容した上で最後に残っている神への信心でのみなされるとしました。神は今でいう理想や美しいものといった解釈になると思います。
ここで歌詞を見てみましょう
「そもそも僕らが生きていく動機なんて存在しな」いが、「立ち上がるのに十分な明日への期待」のみだと言っています。
「明日への期待」という神を信じる心、つまり信心のみであるというわけです。自分はこの信心という解釈に悩みに悩みましたが、この歌詞をきいて、あぁそういうことだったのかと悟ることができました。大変素晴らしい。

ヘーゲル

今回の主役、ヘーゲルです。この人の顔ビビるくらい怖いので一度ググってみて欲しいです。
さて彼の思想が見出せる歌詞はというと
「承認してよ弁証法」
ですね。まんま哲学用語です。私は哲学を知る前にこの歌詞を聴いた時、弁証法を弁償法だと思い、秋田ひろむなんか壊しちゃったのかな、、とか考えていました。あほですね。
さてこの弁証法ですが、フィロソフィー以外のamazarashiの楽曲にもその思想を見出すことができる、amazarashiの人生哲学において基本的な考え方です。
端的に説明するとテーゼとアンチテーゼが合体することによってアウフヘーベンすると言ったものです。意味がわからないですね。何せこのヘーゲルの著作である精神現象学は世界三大難書に数えられるもののため、一読じゃ確実に理解できません。ここでお気づきの方もいるかと思いますが、大体同じ時代の哲学者であるハイデガーの著作も世界三大難書に数えられると前々回の記事で紹介しましたね。そうなんです。世界三代難書全て哲学書なんです。えぇ…って感じですが、本題に戻ります。
つまりこれが意味するところとは、自分の中にある考えや価値観と、それらを否定する考えや価値観を突き合わせることでより良い次元のものにするといったものです。具体的には、自分の中にある他人から否定された部分を考え抜くことによってより良い次元になろうとする、というものですね。これはamazarashiの多くの楽曲にて歌われていると思います。みらよるの「足りない君が馬鹿にされたなら足りないままで幸福になって」とかまんまです。その思考法の実在性を承認してくれと謳っているわけです。現代では、アウフヘーベンによって物事はより良いものになるのではなく、全く別のものになると定義されています。

いかがだったでしょうか?哲学的なことが、曲名が曲名なだけあってとても多かったため、書いていて非常に楽しかったです。再度繰り返しにはなりますが、哲学は真理ではなく思想です。「僕は僕の問いを解いて、君は君の、君だからこそのフィロソフィー」とあるように、あまり深刻に考えすぎず、自分のためになると思ったものだけ持ち帰っていただけると幸いです。
次回は何もなければ花は誰かの死体に咲くについて書きたいと思います。これもマジですごい曲です。また引き続きDMにて解説してほしい曲、事など募集しています。ここまでご覧いただきありがとうございました。


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