ミイラ取りがミイラになるなかれ

どうもこんちゃっす、えせるです。

昨今、「ツイフェミ」というワードの認知度はかなり高まってきたように感じます。僕なりの解釈をあえて小難しく書くと
・SNS上(主にTwitter)で主に活動していて
・フェミニズムを主幹な思想として掲げる
・ラディカルで急進的なグループ
であり、#metoo運動の日本における旗持ち役を務める一方、女性を描いた表現物に対して批判的でネットユーザーとの相性がつくづく悪い集団です。

で、ネット上にはツイフェミほどではなくとも、ある程度フェミニズムへ理解を示し、あるいは同調しており、女性の現状を訴えるための表現活動を行っている層がいます。そんな名もなき層の一人が先日発表したマンガがすごく炎上しましたね。映画館にキモオタが来て、女児の近くに座れる席を手配しろって言われた、みたいなマンガ。

で、こういうマンガや言説が出たときに批判する人(要は炎上させる人)がもちろんいるわけですよ。批判行為自体は言論表現の自由、思想の自由、いろんな観点から見ても憲法で保証されるべき行為です。ただ、論理を履き違えてはいけません。批判、批評、誹謗中傷、弾圧、抑圧、この全ての行いが明確に異なるものであることは理解しておく必要があります。

何より僕が残念なのは、先述の批判者の中に、少なくとも何かの表現に関わっている人が散見されるということです。より正しく言うならば、「表現の自由戦士(注1)」的なスタンスを取っている人たちです。もともと表現者とツイフェミはめっちゃ仲が悪い。表現者(生産者、消費者問わず)からしてみると、ツイフェミは自分たちの領域に踏み込み、享受しているものを奪い、破壊する者にあたる訳です。確かに、ツイフェミが行っている行動が全面的に正しいとは言えないでしょう。一方でこうした表現者グループが彼女たちと同じロジックに陥っていることに、彼らは無自覚なように見えます。

(注1)表現の自由戦士とは、昨今の表現規制の動きに反発し、表現を守るための活動を行っている人を指します。ツイフェミら規制派には蔑称的に用いられるのに対して、後述する弁護士 山口貴士さんなどはあえて自称したりしています。

僕はこうしたグループを表現の自由戦士と言いたくありません。なぜなら彼らは、フェミニスト側の表現を強烈に弾圧しているためです。彼らのことをこのページではアンチツイフェミ、略してアンフェミと呼ぶことにします。

僕自身表現者の一人ですし、大学では「表現規制」をテーマに論文を書いてる身です。ある意味、「表現の自由戦士」の一人だと言えます。だからこそ思うことがいっぱいあります。なので僕なりの考えをつらつら書いていこうと思います。
それに先立って予防線というかおことわりなんですが、引用や出典、情報元についての記述があやふやなところがあると思います。すみませんが、これ論文でもなんでもないのでご容赦ください。

「俺たち」という感覚の危険性

集団的人権論、という言葉があります。これは先程紹介した表現の自由戦士の一人である、弁護士の山口貴士さんが提唱した言葉です。定義をご本人のブログから引用します。

特定人を名宛人としない性的な表現物が子どもや女性等の人権を侵害するという議論(?)をされている方々がいます。これを「集団的人権論」と仮に呼ぶことにします。

山口氏が書いている通り、「表現物(AVとかアニメとか)を通じて、現実を生きる女性の人権までもが侵害されている」というツイフェミの論調に対して、批判的に生み出された言葉になります。細かいことを言い出すときりがないので簡単に言うと、「この表現物のせいで、私たち女性みんなの人権が踏みにじられてます!」という論調のことです。

山口氏は、集団的人権の適用範囲の広さ、特にそれが表現に適用される場合に危機感を呈しています。山口氏の例を引用すると、仮に集団的人権を認めてしまうと

「イスラム教徒」の「集団的な人権」を守るために、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺等をする表現を規制したり、あるいは、「ユダヤ人」の「集団的な人権」を守るために、ホロコースト否定論を規制したりすることも可能

であると言えるからです。(もちろんこれは極端な例であるとご本人も自認しています)

これは何もツイフェミだけの話ではなくて、他の表現についても同様の現象が見られます。例として慰安婦問題を挙げますが、慰安婦問題を認めない層の中にもツイフェミのような急進的グループが存在しています、もちろんですが。昔「ニコン慰安婦写真展中止事件」っていうのがあって(ウィキペディア)、ざっくりいうと慰安婦に関する写真展をやろうとしたところ批判がめっちゃ来て炎上しちゃったから中止しました、って話です。これを社会学者、ジェンダー論者の金さん(ごめんなさい!出典どっか行きました)は、このイベントを中止に追い込んだ反対者(金さんは「歴史修正主義者」という強い言葉を使っていましたが)について「慰安婦問題を認めることで彼らは『日本人の尊厳を踏みにじられる』、突き詰めれば『”日本男児の”尊厳を踏みにじられる』と感じてしまうようだ」と批判しています。これはまさに集団的人権的な考えで、自分が当事者でもないにも関わらず、自分の人権や尊厳が侵犯されているように感じてしまっている訳です。

で、何が言いたいかというと、アンフェミもこのロジックに陥ってしまっているということです。男性や、特にオタクが非難されるようなマンガに遭遇すると、自分も非難されているように感じてしまう。別にそう思うことは悪くないです、自然です。ただその感情は、批判のための合理的な論理としては成立しない、ということです。ただの、感情です。

表現の自由戦士に言わせてみれば、(僕もそう思いますが)誰も傷つけない表現などないのです。だから、「私たち傷ついてます!」と言うツイフェミに対して「それってあなたの感想ですよね?」になるわけです。ただ、これだけでは全く正しくない!めっちゃ言葉不足です。これを僕は以下のように言い換えます。

・表現の自由は憲法で認められている。
・一方で、他者の尊厳などを侵害する表現に憲法は適応できない
・ツイフェミのあなた方が指す表現物は、”あなた”の人権を侵害しているのではない(集団的人権論に対する反論ですね)ので憲法で保証されるべき表現行為である
・しかしながら、不快に思う人がいることも認識し、それに対する対策を講ずることも重要である
・そのためには、お互いの表現、意見、批判を尊重した建設的な検討が必要である

ってなってくるわけです。大事なのは、ツイフェミの主張や男性批判も、思想言論の自由として憲法で保証されているということです。それに対する、「不快だ」「ミサンドリー(男嫌い)なんだろ」「男ばかり悪役にするな」と言う批判(?)こそ「それってあなたの感想ですよね?」なんです。

「表現」してはいけない?

さて、話を先述のめっちゃ炎上したマンガに戻します。作者さんは映画館にてスタッフをしていたときのエピソードを描いており、ある日「周りに女児がいる席に座らせろと強要してきたキモオタ」がやってきて、それを上司に訴えたところ、その上司に「それ、差別だから」と言われてしまう、と言うお話でした。

見たところ、上述のキモオタはかなり醜悪に、キモオタのステレオタイプのような描かれ方をしています。確かに、描かれているようなキモオタは今となってはかなり希少というか、作者の偏見に基づく描写があったことは否定できないでしょう。

先にここで押さえてほしいことは、現状この漫画はフィクションであるということです。確かに作者は実際の経験を描いたもの、としていますが真偽は証明できません。キモオタに関しても決して名前など個人を特定する要素は含まれておらず、また容姿に関しても先述の通りフィクションに基づく脚色がある可能性が高いです。なので今の所いかなる特定の人物も対象にしていないし、このお話自体が真実なのか虚構なのかは判別できないわけです。

さて話を戻して。これに対して「男を恣意的に醜悪に描いている」「男がイケメンだったら良かったんだろ」という主張をする人がいたんですがこれマジで最悪です。一番やっちゃいかん。説明していきます。

そもそも、「醜悪に描写する」ことは全く悪くないってことです。むしろ「醜悪に描いた表現」が作者の主張を効果的に伝えるための手段として見なされるべきなのです。

彼女の主張は、「その男の下劣な私欲に私も巻き込まれた上に、それを上司に言ったら差別者扱いされた!悲しい!」ということですが、それをマンガという形式で、Twitterというメディアで表明することに何の違法性もありませんし、主張内容の良し悪しはここでは問題ではありません。で、そんな下劣なヤローの見た目はこんな感じで気持ち悪かった!と表現することも自由です。ただ、この点については当事者であるキモオタは、人権を侵犯されたと主張できるでしょう。自身の見た目を醜悪に描かれているわけですし、発言だってもしかしたら虚構を含むかもしれません。この点に関しては追及できるでしょう。

ただしアンフェミ、テメーはダメだ。先程も言いましたが、不快になるのは自由にせよ、それを根拠として批判する行いは集団的人権論的であると言う他ありません。さらに付け加えるなら、先程述べたとおりこの漫画がフィクションである以上、「当事者のキモオタ」は実在しない、ということになります。上司も同様です。ツイフェミが非実在のアニメキャラを指して「女性の人権が!」って主張しているのと全く同じ構図です。

何より、「醜悪に描くコト」自体は自由なのです。なぜなら、そのように描かれたのは、作者の表現にとって効果的であったからでしかないためです。

このロジックは、ツイフェミにおいても同様です。思い出してください、「宇崎ちゃん」ポスターが炎上した時、彼女たちは「胸が過度に強調されている」と言っていました。「ラブライブ!!サンシャイン」のポスターが燃えたときも「股間を恣意的に強調している」とか。これらの表現は一つのマンガ・アニメ表現として、ある程度認められなくてはいけません。なぜならそれが、「キャラクター、あるいは図画を魅力的に表現するための手段」に過ぎないためです。(この辺も話し始めると長い!マンガ表現の文化史とか、そういう話になってくるし、もちろん法的な線引も大事です。これらの表現があくまでも、オタク文化がサブカルチャーだったから成立していた表現であることも検討すべきでしょう)

キモオタを醜悪に描いたことと、おっぱいをでかく描くことの両方の共通点は
・フィクションである(実在する対象を持たない)
・表現を効果的に伝達するための手段である(キモオタの醜悪さを強調する、キャラの女性的魅力を強調する)
となると、僕の立場で言うならば、実在する存在を描いているわけではないのだから誰の人権も侵犯していないし、フィクションを如何様に表現しようともそれは自由、という論理になります。

話を戻して。先述の「男を恣意的に醜悪に描写している」という主張は、ツイフェミによる「女を恣意的に性的に描写している」という主張と全く同じロジックに陥っている、というのが僕の感想です。醜悪に描写しようと、性的に描写しようと、それは表現の自由という法的な観点からすると大いに構わないということです。(もちろん、それが人目につくところ、つまりSNSとか献血所とかでデカデカと発表されていることの良し悪しとは別の話です。ツイフェミが主張する「公共性」ですね。これは比較的正しい主張だと思います。またSNSがパーソナルとソーシャルの境界が曖昧なツールであることも意識せねばならないでしょう。この辺はSNSメディア論に話が飛躍していきます)

というかそもそも、表現に「良し悪し」をつけようとすること自体が間違いなんです。って言うと語弊があるので説明します。

「言ってることが違うじゃねーか!」ってなるかもしれませんが、表現や主張に対して「良い」「悪い」と判断すること自体は思想自由です。ただこのことが「主観に基づく価値観に過ぎない」ということに自覚的であるべきです。それを「社会的に間違ってる!」とか、「人権を踏みにじってる!」とかみたいに一般化(主語をでっかくする)から話がおかしくなるんです。

おわりに

「表現」を巡る論争は、今に始まったことではありません。「ジェンダー論」についても同様です。ここまでに書いたような議論や、主張すらも、昔からずっと存在していたことです。表現の自由やジェンダーについて取り扱う先行研究の豊富さからも一目瞭然です。

ただとにかく僕が残念なのは、表現を守れと声高に叫ぶ人ほど、他者の表現を尊重できていない現状です。おそらく彼らは、自分の表現が弾圧され、抑圧されているという感触を持っています。弾圧され、抑圧されている人ほど、他者にそうしてしまうのは、マナーやルールといった規範の遵守意識にも見られるのではないでしょうか。つまり、人のマナーや態度にうるさい人ほど、自分が厳しいマナーやルールを強いられ、抑圧されていた過去があったりするように。

人は、悪を弾圧することについ無遠慮、無秩序になりがちです。煙草やパチンコ、酒類、自動車やバイク、ゲーム、エロ本……例を挙げだすとキリがありません。ツイフェミにとってオタク文化は女性の尊厳を踏みにじる悪ですし、アンフェミにとってはツイフェミは自分たちの表現の自由を侵犯する悪です。別に悪と思うのは構いませんが、無秩序になってはいけない。論理を捨てて互いの感情論をぶつけ合うばかりでは水掛論になって当然でしょう。

我々の表現活動を守るためには、相手の表現をも尊重した、包括的で建設的な議論が必要不可欠なはずです。しかし、それが難しいのもSNS時代の悩ましさ。「サイバーカスケード」とか言ったりしますが、結局SNS上で論争するのは、両極端のラウド・スピーカーしかいないのです。

自分の研究活動を通じて表現規制の歴史、ジェンダー論、メディア論、果ては社会学や法学、行動心理学などに触れていく中で、こうしたSNS上での議論は議論ではないという考えになっていきました。SNSはあくまで、各々が自由に主張し、それを他人も自由に見るという環境です。主張することは、憲法で保証される自由です。また、それを批判する主張を行うことも。

しかし、批判と弾圧は違います

批判とは、相手の主張や言論を正しく理解しようと努め、それから初めて自分の意見を主張し、また自分の主張が批判されることを認められるという行いです。

弾圧とは、相手の主張を頭ごなしに否定し、自分の主張をもってそれを抑圧し、自分の主張に「正義」を認めてしまう行いです。

誰かを、何かを批判しようとした時、相手の主張をしっかり理解しようと務めましたか?完璧に理解しなさいと言っているんじゃないんです。理解しようという姿勢を持ってください、ということです。理解しようとした上で、同意できなくてもいいんです。

知り合いのオネエがこんな事を言っていました。

「ワタシがオネエであることを気持ち悪く思ってもらっても良い。理解不能でいい。ただ、ワタシがワタシとして生きていることを否定されなければいい」と。

ミイラ取りがミイラになるなかれ。むしろ、ミイラがミイラ取りになるなかれ?

表現の自由戦士を自称するならば、人の表現を弾圧してはいけない。
そのことを、ともに胸に刻んでいただけたらと思います。

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