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空気感と解像感

古の写真集を見たり、有名な写真家のフィルム写真をみていると思うことがある。なんでこんなに解像度が低いのに解像していないはずのものが見えるかのように、表現に含まれているエッセンスを感じ取れるのだろうかと。

思うに、人間は知らぬ間に視界の中にある自分で見えないものを補正していて、それはもちろん見るものの経験や性質的に個人差を産む、そして見るものにとって都合のいい像として最終的に吸収され、そこから作品を理解するのだろう。これは別に確実なエビデンスを持つわけでもなく、まあ強いて言うなら芸術鑑賞の感想にその鑑賞者の生い立ちが多少関わりがちらしいという傾向をエビデンスとして出せるぐらいなまあ7割方は正しそうな理論だ。とりあえず私の中で定説としておく。定説は定期的に更新されることがあるのがどこの世界でも有り得るしまあこれでいいだろう。

芸術における理解への余裕

さて、こう考えると写真における被写体の解像度というのは鑑賞者が読み取る時に要する思考の余地ととることも出来るのでは無いか?もしこの理論が正しいのであれば、主題のみにピントを合わせた写真で後ろを大ボケにするのはボケ部分(この場合は写真の8割ぐらいだろうか)を鑑賞者の想像に任せるということだろう。確かにそうなってくると鑑賞者の負担が大きくなる。ついでに写真全体の解像度が酷い写真というのも朧気な輪郭に鑑賞者なりの輪郭をつけるという鑑賞者の負担を大きくした写真と解釈できるだろう。これは芸術の世界全体に言えることで、芸術に淡い表現が好まれる節があるのはそういう面白さを追求した結果なのかもしれない(というかそれが機械的な記録と芸術の差とも言えるのかもしれない)。

空気感

ここまで何かと自分の持つ語彙で語ろうとしていたが、ここまでの内容をまとめて我々が脳内補完しているものを表した言葉が世の中には存在する。「空気感」だ。この言葉は魔法のごとく私たちの脳に語りかける。「雰囲気」というのも類義語で存在し、これもなかなか的を射ているだろう。つまるところ我々は視界をニュアンスで見ているわけだ。ということは鑑賞者に考えて欲しいというか自分の意図が伝わらなそうな部分は相手に考えてもらった方が相手に納得してもらいやすいので朧気にしておくべきだという考えも出てくる。これは写真表現のひとつの正解なのかもしれない。最近ネガティブスペースという空間の使い方をとある海外YouTuberの意見から得た。ネガティブスペースというのは視線誘導をするための空間として使う表現用のシャドウであるが、これは鑑賞者の想像力を膨らませるのにもとても役立つ。鑑賞者にとっての空気感というものを決めるのに一役買うわけだ。

ネガティブスペースを使った視線誘導

判断

ここまで話してきて分かることとして、表現において大事なのは主張と委任ということだろう。ただ我を通す表現も存在するが、鑑賞者に解釈を任せる表現も存在する。そのバランスを自分の目の前の景色からどうやって配分するか、配分できるのかが作品を作る鍵のひとつなのではないだろうか。写真は目の前の景色からしか作ることが出来ない。絵のように存在しない要素を加えることは出来ないのだ。都合の良くないものは表現によって都合よく見せる。要は鑑賞者を騙す力こそが写真表現で加えられる要素と言えよう。

D4s AF-S NIKKOR200-500mm f/5.6

(考察思案02)

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