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勝手に育って。

 テレワークで意味と価値に搦めとられて、植物を育て始めた。
 誰も褒めたりしない、やってもやらなくてもいい、人間以外の生き物に振り回されたい。(保護猫とか、偉いねって言ったり言われたりするから。そもそも飼えない)

 大葉は大量に育って、もりもり消費しているんだけれど、食べる用ではない植物たちを、ただ育っていくのを見守って、水が要るのか、肥料を足すのか、陽当たりが強すぎやしないか、少し手を加えている。
 花が十分育ったタイミングで剪定して、ドライフラワーにして。もしかしたらリースを作ってみるかもしれない。
 性格上、鞄の中にはいつも折り畳み傘が入っているから、あんまり天気を気にすることもなかったけれど、植物たちがいるなら気にもなる。
 一年草がうまく育たなくて、最初に花をつけたのに、それ以降は全く。もう茶色くなっている部分が多いのに、まだなんとかなるかもしれないとそのままにしている。

 あんまり植物に興味もなかったし、花瓶に活けられた花は今でも苦手。
 枯れていくものを、愛でることができなかった。植物のサイクルは早い。
 声もなく、悲鳴を上げることもなく、ただ手が足りなかったり手の貸し方を間違えたら茶色くなって枯れていく植物を、そっと見殺しにすることもできる。失敗しちゃったな。それでおしまい。

 でも植物のトラウマはずっと昔のことで。
 アパートの隣に住んでいた姉兄妹の幼なじみと、近所の家の軒先の赤い花を勝手に摘んで、占いもしないのに花びらをめくってめくって、遊んでいた。近所だから当然身元がばれていて、「あんまりそういうことは」的な微妙な、注意とも言えない何かを母親から言われた。
 でもあなた、シロツメクサ摘んで花冠つくってたじゃない。

 今ならそれが「所有」に関する問題なんだとわかるけれど、じゃあなんで花を摘んで花瓶に挿すのはいいのか。花の所有権は花にしかないんじゃないか。人間が植物を所有することなんてできるのか。
 こういう花の使い方はいい(それはダメ)。こういう摘み方はいい(これはダメ)。そういう人間の線引きが、ずっと苦手だ。

 何かを育てることと所有することが、どこかでくっついてしまっていた。

 最終的に、ある時ふと四国山脈を眺めて、これが全部誰かの所有物なのかという所まで行き着いて、行き詰った。
 いや、無理だろう。
 どっかの書類にはそんなことも書いてあるだろうけれど、所有というには広大すぎる。これを人間のものだと言うのは、社会制度として唱えているんだ。

 今、植物との関係は、共生よりも少し遠いくらい。
 互いに干渉し過ぎず、それぞれ勝手に生きている。
 お互いそこに居る。それだけ。

 勝手に生きている。


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