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【第一章‐Ⅱ】濃くなっていくグレー

対象範囲:新潮文庫「海と毒薬」46ページ~57ページ

第一章Ⅱの舞台も、Ⅰと変わらず戦争中のF医大です。

戦時の重たく暗い雰囲気のなかで、勝呂はオペを受けることになった担当患者「おばはん」の予備検査を進めています。

本当にみんなが死んでいく世の中だった。病院で息を引きとらぬ者は、夜ごとの空襲で死んでいく。

第一章Ⅱの書き出しはインパクトのある殺伐とした一文です。わたしも一応医療従事者の端くれ(本当に端くれ)なわけですが、戦時の医療従事者がどんなモチベーションで仕事をしていたのかは想像もつきません。ただ、人はどんな時代のどんな環境でも結構あっという間に慣れてしまうものなので、案外今と大きく変わらないのかもしれません。

鉛色をおびた低い冬の雲のどこかで絶えず、ごろん、ごろん、と鈍い響きがきこえ、時々思い出したようにパチ、パチと、豆のはじけるような音がした。

この音が何の音なのかは後に描かれますのでそこに譲るとして、わたしがここで注目したいのは、小さい音が聞こえる生々しさです。戦争、空襲、銃撃戦などのシーンは爆発音や轟くような大きな音、そして肌や体で感じられる振動から、その過激さや凄まじさを描くのが一般的です。このシーンでも前半の「ごろん、ごろん」はおそらくその類ですが、「パチ、パチ」というおおよそこの場面に似つかわしくない音を拾うことによってキュッと情景が引き締まって緊張感がうまれます。空襲の轟音に慣れた勝呂の耳が拾った、小さな「豆のはじけるような音」はこのシーンで効果的に読者をひきつけるだけでなく、後からも効いてくる大事なフレーズです。

学生時代から戸田とちがって勝呂は小説や、詩はさっぱり、わからなかった。たった一つ戸田に教えてもらって覚えている詩があった。海が碧く光っている日にはふしぎにその詩が心に浮かんでくるのである。

今でこそ、仕事観を巡ってやや距離ができている勝呂と戸田ですが、人の生死にかかわるようなことが日常になる前の学生時代は、本当に仲が良かったのであろうことがうかがえます。

本作で海の描写はたくさん出てきますが、とくにその碧さを強調しているとき、それはタイトルの「海と毒薬」の「海」です。人間のなかにある毒薬と対峙する存在としての海、つまり「救い・倫理・信じる心」です。その文脈での「海」とセットになっている詩ですから、これもまた、「救い・倫理・信じる心」と関連がない訳はありません。

羊の雲の過ぎるとき 蒸気の雲が飛ぶ毎に 空よ おまえの散らすのは 白い しいろい 綿の列(空よ おまえの散らすのは 白い しいろい 綿の列)

ググるとわかりますが、これは立原道造の「雲の祭日」という詩の一部です。

(立原道造はなんと24歳で亡くなっているとのこと。驚き…。)

この詩のいうところとしては「空きれいだな」だとわたしは思います。

詩の解説などできないですが(小説の解説もできません。今書いているのは感想文です)、本当に、ひたすらにまっさらな心持で空を見上げて、何の損得勘定もなく「ああ、きれいだなあ」と息をするように自然に思う、そんな詩ではないのでしょうか。

その一説を口ずさむと勝呂はなぜか涙ぐみそうな気分に誘われてくる。特にこの頃、おばはんの手術予備検査を始めてから、彼は屋上にのぼり海を見つめてこの詩を嚙みしめることが多くなった。

海を見て、詩を口ずさんで、涙ぐむ、一連の流れはなんだかキザですが、そういう行動は理解できます。海を見ていると、色んなことを考えますし、海を見るたび思い出す言葉や詩や歌や景色があります。そんなとき、往々にしてセンチメンタルな気持ちになりますよね。

物語のキーになるような大事な詩なのだから、何かの隠喩が隠れているのでは?という考えもありそうですが、恐らくはそういうものがない純真な「空を見てきれいだなと思う心」を可視化したもの、としてこの詩が登場しているのではないかと思います。

救い・倫理・信じる心が、「神の存在」によって担保されているコミュニティもある中で、日本はそうではありません。「神」とはどのような存在であるかは後に戸田によって語られますが、そんな「神」をもたない日本人が、それぞれの中に救い・倫理・信じる心をもって生きるためには、碧い海や空を見て「きれいだな」と嘆息するのが原点だ、と訴えているように、わたしは思います。

自分がなぜ承諾したのか、彼女自身にもわからないようだった。

勝呂が担当している結核の施療患者である「おばはん」は、オペを受けることになっていました。しかし、そのオペは本人が希望したものでもなければ、奏功率が高いものでもありません。肺活量などを検査した結果、研究生の勝呂でもこのオペをおばはんにするのは90%までは危険だろうと思うほどです。柴田助教授から打診されたこのオペを、おばはんは断る選択肢もありましたが、おばはんは承諾し、医師の指示に懸命に従おうとします。それなのに「自分がなぜ承諾したのか、彼女自身にもわからない」のです。おばはんは、医師たちがきっと自分の身体を治してくれると信じ、全て委ねているのです。

「今度の施療患者でぼくが実験してみたいのはね」

勝呂はおばはんの検査結果を持って研究室へ帰り、心臓が弱っているからオペは向かないだろうと報告します。研究室にいた浅井助手と柴田助教授は、ハナからおばはんの身体など心配してはいませんでした。オペをしなくても数年しか生きられない貧しい施療患者をの身体を使って、新しい術式の「実験」をしたいのだと、柴田助教授はこともなげに言って見せます。

勝呂は礼をして部屋を出た。廊下の窓にしばらく顔を当てていた。なぜだか非常にくたびれているような気がする。体の芯まで重いのである。

柴田助教授をはじめとした医師たちに、おばはんのように患者たちは全幅の信頼を寄せているというのに、医師ときたら研究室では一人の人間の命がかかった手術を「実験」呼ばわりです。数十年前の勝呂は部屋を出た後廊下でボーッとしていますが、令和を生きるわたしだったら、Twitterの非公開アカウントで「上司の倫理観ガバガバなんだけどどこもこんなもん???」とかつぶやいていると思います。そして、襲ってくる疲労感

いつぞやに友人が「自分の魂に合わないことやると、心身ともにめちゃくちゃ疲弊するよな」と言っていましたが(友人すごいぜ)、本当にこれです。魂を構成するものは理性・倫理観・好き嫌いだとわたしは思っていて、それと合わないことをすると、心身ともにめちゃくちゃ疲弊します。まさにこれです。この後も、勝呂はどんどん疲れてぐったりしていきますが、それは自分の魂に合わないことをしていることの表れなのです。

「オペ、受ける患者がまた一人、ふえよった。俺と浅井さんが検査担当や。なに?おばはんやあらへん」そして戸田は唇のまわりに学生時代から勝呂に何かを教えてやろうとする時の癖で、相手をみくだしたような微笑をうかべ、声をひそめた。

こういう人いるよねえ。デフォが「教えたるわw」テンションの人。

それを急にこの二月に変更したことが、勝呂にはまた、わからない。

さっき戸田が言っていたオペを受ける患者というのは、田部夫人という患者です。現在F医大内では次期医学部長を巡る争いが起きているわけですが、田部夫人はその亡くなった大杉元医学部長の親族です。要するにVIPです。若くて美人です。病歴は若く、いずれはオペをする必要があり秋に予定されていましたが、それを突然早めたというのです。

「なぜ、急に変ったのやろうなあ」

そう、それよ。勝呂は基本的に読者サイドなので、読者が疑問に思ったことを物語の中でも発露してくれます。そしてそれには大体戸田が答えてくれます。勝呂は基本的に読者サイド、などと簡単に書きましたが、この辺は人によりますね、戸田サイドの人も結構いたりして

「このオペはおやじの部長選挙と関係あり、と俺は睨んどるんやで」

なるほど、田部夫人のオペを早めた目的は点数稼ぎというわけです。戸田君教えてくれてありがとう。部長というのは医学部長のことで、医学部長選挙は四月にあるので、それまでに元部長の親族のオペを成功させて恩を売っておこうという作戦のようです。

わたしは院生のころの2年だけ医大に所属していたのですが、医大には、本当にちょっと信じられないような勢力争い(ここまで非人道的なのはないですけど)がありますし、そういうのにやたら詳しくてお喋り好きな戸田みたな人が、一定数実在します。一方で、わたしや勝呂のように「白い巨塔の世界なんてわかんないし、目の前の患者が一番大事でしょう」みたいな青臭くて田舎臭くて泥臭い人(貶しているわけではないです!)も、います。勝呂と戸田は対称的な倫理観・人生観をもっていますが、この2人というのは、数十年たっても依然リアルで普遍的な2つの対概念の擬人化だと思います。

「おばはんは柴田助教授の実験台やし、田部夫人はおやじの出世の手段や」「あたり前やないか。それがなぜ悪いねん。第一、お前、なんでおばはんばかりに執着するねん」(中略)「俺には都合よう言えんけど……」

りょ、良心の呵責~~~~~~~~~~~~~!!

ここからしばらく、勝呂と戸田の会話が続きます。医学はこうやって進歩してきた、ただ結核や空襲で死ぬよりも医学の発展に寄与したほうがいいだろう、と話す戸田に勝呂は「本当にお前は強いなあ」とため息をつきます。

「強くなければ、どう生きられる」突然、戸田は引攣ったように嗤いはじめた。「阿保臭。こんな時代にほかの生き方があるかい」

突然笑いだす戸田、怖。この時点では、どうしてこんなに戸田がドライなのかはまだわからないわけですが、戸田は何かをきっかけにこういう考え方になったのではなく、「もともとこういう性格である」ことが後に語られます。そんな戸田からしたら、答えの出ている問いに悶々と悩む勝呂の姿は理解不能でしょう。問いについて答えが出ているというよりは、戸田が思考停止しているだけでもあります。

「そうやろか」

戸田の「こんな時代にほかの生き方があるかい」と思考停止した発言に対して勝呂は「そうやろか」と否定的に返します。どんなに人が死んでいく世の中だろうが、医学部長戦の為だろうが、患者が拒まなかろうが、(これらは全て第一章‐Ⅰで語られた、普通だったらしないことをしてしまうことへのハードルを下げる(=人間の内にある「毒薬」を使いやすくする)要素です)、それでも、してはいけないこと、譲れないことがるのではないか、と勝呂は考えています。しかし、戸田の言うことも理論としては理解できてしまい、かつ、勝呂自身には状況を変えるパワーがないため、「そうやろか」と状況を全肯定しないことが、ささやかですが精一杯の抵抗なのです。なんとも歯がゆく、やりきれないつらい状況です。

戦争が勝とうが負けようが勝呂にはもう、どうでも良いような気がした。それを思うには躰も心もひどくけだるかったのである。

考えても考えても、どれだけ内心で葛藤していても、抵抗して現実を変えることはできないことに、勝呂自身も気づいています。それでも、魂に合わない、自分の倫理観に反することをやらねばならず、疲弊した勝呂はもう何も考えないことにしたのでした。


第一章‐Ⅰでは、人間がグレー(あるいはブラック)なことをしてしまいかねないような外的要因が丁寧に説明されました。グレーなことをするコストが下がったり(戦時中で放っておいても人がバタバタ死ぬ状況)、人の根源的な欲を満たすためだったり(医学部長戦の点数稼ぎ)、カウンターサイドが不在だったり(患者は医師のことばに逆らわない)、人が内にもつ毒薬を使うハードルがグッと下げられていることが描かれていました。

そんな状況の中で、第一章‐Ⅱでは、実際に研究室の医師たちが、(毒薬を抑制することが出来ずに)グレーなことをし始めます。それに勝呂は内心で葛藤しますが、結果として抵抗する手立てをもたず、考えても考えても良くはならない状況を前に、心身を疲弊させて、考えることをやめてしまいました。作品としては、勝呂が聞いた「パチ、パチ」という音や、雲の祭日の一節が、考えることをやめた勝呂の災難を時間差で際立だせていくよう仕込まれています。


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