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【第一章序章】日常風景から始まるサマリー

対象範囲:新潮文庫「海と毒薬」5ページ~30ページ

「海と毒薬」の始まりは、「私」という、よう知らん人の視点で語られます。

この人は物語の中心人物でも当事者でもない、普通の人です。戦後すぐのこの時代の「普通の人」がどんなんか具体的にはわからないですが、「普通の人」として描かれています。何も知らないで読み始めても、冒頭のこの人が話の中心でないことはなんとなくわかります。

この人は経堂から西松原というところに妊娠中の奥さんと一緒に引っ越してきました。街の人たちも、もともとここに住んでいた人ばかりではないようで、戦時は人を殺したような人も、乱暴をはたらいていた人も、何事もなかったかのように普通に暮らしています。そういう時代だったんでしょうね。

何事もなく普通に暮らしている人が、実は犯罪者かもしれないとか、自分には信じられないようなことをする人なのかもしれない、とか、わたしもたまに想像してソワソワします。そういう時代ですよね。

戦後すぐのこの冒頭の話も、その後「過去の話」として始まる戦時中の話も、現代とかけ離れているようでいて、そんなことないんです(それがいい事か悪い事かはなんともいえないですけど)。

「私」は持病の治療のために、引っ越し先で開業医の勝呂(すぐろ)医師を訪ねるのですが、その勝呂医師が、腕はいいものの、すごく陰気でなんだか変なのです。しかも九州訛り。勝呂医師と会ってから、「私」は勝呂医師のことばかり考えてしまうようになります。

彼は私などではなく別のことを考えているようだった。

勝呂医師は技術があるのに、治療中に目の前の患者を見ていないで何か別のことを考えているというのです。勝呂医師、過去に何かあったんでしょうか。

ただ勝呂医師のことだけが妙にわたしの好奇心を唆った。

これは本編とは関係ないんですが、冒頭の語り手の「私」、勝呂医師に対する執着がすごいんですよね。まあ確かに変わった名前で、訛りもあって、「こんなに腕がいいのにどうしてこんなところへ?」と不思議に思うのはわかるんですけど、それにしたって執着がすごいです。そんなに気になるのかな?この語り手の人、現代だったらSNSで「勝呂 医師」とかパブサして勝呂医師の学生時代の部活のトーナメント表とか見て喜んでそうです。

診てもらったんだがその代金、まだ請求してこないからな

ガソリンスタンドのおやじと語り手が「勝呂医師ってなんか変だよね」と話しているときのガソスタのおやじの証言です(語り手、ほんとに会話の種が勝呂医師のことばかりなんだけど何故なの??好きなの??)。勝呂医師は確かに変だけど、金請求してこないから助かるぜ、というんですね。わたしはこの一文でなんとなくわかりました。「勝呂医師は無期懲役ライフを歩んでいるんじゃないか」と。無期懲役ライフっていうのは、一生付きまとう様な大きな罪悪感を償うためなら何でもしてしまう、贖罪にすべてのスタートをもつ生き方のことです。もうこの辺りから、わたしは勝呂医師のことを他人事とは思えなくなってくるわけです。

わたしの無期懲役ライフについての考え方はこちらの記事をご参照ください。これ書いているときは無期懲役ライフ脱せた気でいたけど、今となっては怪しいものです笑。


勝呂医師がたちどまってジッと見つめていたのはこのスフィンクスだった。

この、服屋さんのマネキンやたら強調されていて怖いんですけど、勝呂医師がじっと見ていた、と。これは冒頭を読んだだけだとわからない、いわゆる伏線で、勝呂医師は過去に白人に対してやばいことをしてしまうので、それを思い出していたんでしょうかね。20年経っても白人のマネキン見ただけで足を止めて考えてしまうほど、過去にとらわれてしまっているんだとしたら、だいぶ恐ろしいです。

私は彼にもこの河をみたり、街を歩いたりするような医学生時代があったのだと思って可笑しかった。

語り手の「私」は、義妹の結婚式のためにF市(福岡市でしょうね)に行きます。そこは勝呂医師が卒業した大学があった街。いやもう感じ方が、推しの聖地巡礼するときのオタクのやつじゃん。著者としては「今でこそあんな陰気な中年だけど、そうなる前はどんなだったんだろうな~」とか読者に考えさせたいんでしょうか。著者の意図はわかりますが、「私」という人間は、なんでそんなに勝呂医師のこと気になっちゃうの?青黒くむくんだ顔、とか書かれている勝呂医師、本当はダウナーな感じのイケメンだったりするんですかね??それはそれでいいですね????(落ち着いて)

「それならば勝呂という医師を御存知ありませんかね」

義妹さんの結婚式に参列中だというのに、名刺交換した相手が医師だからってすぐこれ本当に勝呂医師のこと好きな?

下世話なはしゃぎ方はこれくらいにして、この名刺をくれた医師が「例の事件でな」と教えてくれることによって、話はだんだん核心に近づいていきます。時空間を「戦時中の九州」から「戦後の東京」に飛ばして、そこから日常を通して本題に迫っていくの、読了後のループ感にもつながるしアプローチがおしゃれで惚れちゃいます!

眠れなかった。(中略)勝呂医師のことを考えつづけた。

「例の事件」のことを聞くことによって、「私」の勝呂医師への興味は色を変えています。ただの不気味な医師ではなくて、センセーショナルなあの事件に関与した人物、となったわけですね。あとで勝呂の言葉にもありますが、戦時から戦後、人が大量に死んでいました。人が死ぬこと自体は、なんなら人を殺すこと自体は、「非日常」ではなかったのです。それでも「あの事件」が「事件」として成立して話題を集めているのは、「殺し方」に大きな問題があったからでしょう。どんな殺し方はよくて、どんな殺し方はだめなのか…。何人死んだのか、という単純な「結果」だけでは切り分けられない何か、すなわち倫理観の問題です。いよいよ、この作品の主題が描かれ始めます。

当事者の主任教授はまもなく自殺し、主だった被告はそれぞれ重い罰を受けていたが、三人の医局員だけが懲役二年ですんでいた。勝呂医師はその二年のなかにはいっている。

「私」は新聞社で調べものをし、「例の事件」の裁判について知ります。今だったら前の晩のうちにググって調べちゃうんでしょうけど、それができない時代だから「私」は一晩眠れずに過ごしたんですね。クラシックなエモさがありますね。

「例の事件」というのは、戦争中にF医大で行われた、米軍捕虜の生体解剖事件であることがわかります。人間は血液をどれほど失えば死ぬか、血液の代わりに塩水をどれだけ注入することができるか…など、背筋が凍るような「研究テーマ」が本文中で羅列されます。そして勝呂医師が医師になる前、医学生だったころに、この生体解剖に参加していたことが新聞記事から判明します。当時医学生だった勝呂は、関係者のなかではもっとも軽い懲役二年で済んでいるとのこと。具体的に何をしたのかは新聞記事からは知ることができなかったものの、首謀ではなく、きっと上からの命令に従っただけだったのでしょう。東京で「私」と勝呂医師が会っているのは、懲役が終わった後の出来事です。社会のルールとしては、勝呂医師はもう「罪を償い終わった」ことになっています。

それでもなお、勝呂医師は白人のマネキンを見ては足を止め、処置の途中でも心ここにあらず、開業医なのに診療費の請求すらしない、という魂の抜けっぷりです。一体、何が彼をそうさせてしまうのでしょうかそして、わたし(「私」ではなくてこの本を読んでこの記事を書いているわたし)は、どうすれば、勝呂のようにならずにすむのでしょうかわたしが「海と毒薬」を読み進めるモチベーションは、この問いの答えを探すことでした。そして読了後に自分のアクションを決めるに十分な答えが得られたため、「人生において大事な本」と位置付けているわけなのです。

眼下にはF市の街が灰色の大きな獣のように蹲っている。その街のむこうに海が見えた。海の色は非常に碧く、遠く、眼にしみるようだった。

「私」は衝動的に、事件の現場であるF医大の手術室へ行き、「頭が痺れるような気がしたので」屋上に上り、そこからの景色を眺めます。ちょっと前の珈琲店のシーンでは、福岡の賑やかさと色彩が表現されています。それでも、人間の集合体である「街」は俯瞰すると「灰色の大きな獣」なのです。そしてその向こうに見える「海」の鮮やかな色と、美しさ、清さの対比が本当に鮮烈です。このシーンでまず泣きました。

「海」というのはそもそもわたしにとって、かなり重要なテーマです。なんでこんなに海に執着するのか、もはやわからないほど、わたしは海が好きですし、海のことを好きでいようとしています。その答えの一つの可能性が「海と毒薬」によって示されたようにも思います。

毒薬を持っているのは、人間です。灰色のF市の街並みの向こうに碧い海が見えるこの光景が、「海と毒薬」の視界です。

著者である遠藤周作は長崎県の「沈黙の碑」に、このように書きました。

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画像:遠藤周作文学記念館HPより


人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです


沈黙の碑自体は、「海と毒薬」ではなく「沈黙」に寄せられた言葉と捉えるのが自然かもしれません。ただ、わたしにはこの言葉が、「海と毒薬」で伝えたいことの全てのように感じられます。

また、遠藤周作は次のような言葉も残しています。

まあ海というものは、恩寵の海でもいいし、愛の海でもいいんですが、人間のなかの毒薬と対峙するものです。(『人生の同伴者』より)

海とは何か、あえて言葉にすると表現の幅が小さくなってしまいそうですが、それは良心であり倫理であり信じる心ではないでしょうか。

もしかしたら、わたしが海に執着するのは、こういった感覚によるものもあるのかもしれません。

「仕方がないからねえ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって自信がない。これからもおなじような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない……アレをねえ」

珍しく勝呂医師がいっぱい喋っています!F市から東京に帰ってきた「私」は、勝呂医師に対して恐怖を抱きながら処置を受けています。

勝呂医師は、自分がかつて生体解剖実験に加わったことによる罪の意識に囚われています。後で語られますが、医学生のころの勝呂には、拒否権がありました。断ることもできたのです。しかし、断りませんでした。それだけでなく、これほどまでの苦しみに苛まれながら、「これからだって自信がない」と言うのです。どうして、「今度こそ正しい選択(少なくとも自分は後悔しない選択)をする」と思えないのでしょうか。自分はまた同じ過ちを犯すかもしれない、と自分のうちに巣食う制御不能なものに怯えながらすごす日々は、死ぬまで続くのでしょうか。

読了後の感想もふまえて書いているので、ネタバレや伏線回収に配慮しない記事となっています。未読の方はお気をつけくださいね(先に言おう)。

ひとまず、わたしがいかに「海と毒薬」にはまり込んでいるかはわかっていただけたかと思います。今後もこんな感じで続きます!

「海と毒薬と私」INDEXはこちらです。


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