誕生日に自己肯定感の意味を知った気がする話

私ごとではありますが、先日34歳の誕生日を迎えました。
もう、三十代半ばなので、本当に取り立ててお祝いするようなことではないのですが、わたしの人生にとってとても意味のある日になりました。

というのも、初めて、誕生日を祝ってもらうことを“嬉しい”と感じたのです。

振り返ってみると、今まで誕生日って正直あまりいいイメージがない。

親や家族に対しては、
お母さんに産んでくれてありがとうと感謝する日。
好きで生まれてきたわけじゃないのに、おめでとうって何もめでたくない。
誕生日プレゼントを決めなければならない。別に特別なモノが欲しいわけじゃない。むしろ愛が欲しい。
のに、プレゼントに喜んで、期待に応えなければならない。

友だちや周りの人には、
どれだけ多くの人に祝ってもらえるのかが大事。
誕生日=友だちの数を認識する日(そして目を背けられない事実を突きつけられる)。
祝ってもらったらありがたいけど、心から嬉しいと思えるわけじゃないのに、頑張って喜んでいることを表現しなければならない。

喜ばしい日なはずなのに、嬉しくない、嬉しくもないのに、喜ばなければならない。
嬉しい日というよりは、むしろ苦しい日、憂鬱な日でした。

そんなわたしですが、つい先日迎えた誕生日、会社の人、家族、夫、むすこ、さらにはいろいろな会員登録をしているサイトなどから、たくさんのお祝いの言葉が届いたのですが、嫌な気持ちになることなく、ちゃんと“嬉しい”と感じたのです。
友人からもらったのは、たったの1人だけだったけれど、それも特別悲観することなくいられたのです。

その気持ちは本当に不思議で、温かく、自然とありがとうと思えて、周りにいてくれる人に感謝できるものだった。

その時期、実際のところ身の回りでは、いろいろとバタバタとした出来事が続いていて、それほど心に余裕のある時期ではありませんでした。夫が仕事を辞めたいと言い出して休み出したり、妹が妊娠中に母親と揉めてドロドロとしたケンカの仲裁に入ったり。
一方で、相談に乗るなかで、今までと違った手応えを感じていました。今までは相手の気持ちに寄り添うだけ、共感することしかできなかったのに、相手の気持ちや状況に傾倒しすぎずに、相手の気持ちを考えたうえで自分に何ができるか、何が言えるのかを考えて行動することができた気がする…!と。自分の軸がしっかりしたような、自分を支えてくれるもう1人の自分の存在がいるように感じたのです。

その状態に気づいて、自己肯定感ってこのことか!とふと気づきまして。
今、自分を取り巻く環境に満足していて、自分が自分を支えられているという実感があると、生きていて大丈夫と思える。そういうものが自己肯定感なのではないかなあと。
そういう気持ちで生きていたから、無事歳を重ねられたことをありがたいと感じ、周りの人からの言葉も素直に受け止められたのではないかなと思います。そして自分の心の回復も感じられてよかったな。

心理系のことを勉強していると、自己肯定感について、自分は低いから高めなければと思っていたので、目から鱗の気づきでした。

もう34歳。でも、まだまだ34歳。
数年後にはまた全然違う自己肯定感とはを見出しているかもしれないが、それはそれで楽しみです。

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