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かつて内輪の悪ノリを「退学」したような気がする話

SNSに迷惑動画が投稿されるのは、仲間内でのウケ狙いが暴走した結果とも言われている。私は良くも悪くもそんなのとは縁のない人間に見えるかもしれないが、ネット上でなら子供のころ内輪で悪ノリをする集団の中にいたことがある。

私がオンラインゲームで最初に所属したコミュニティには、禁止ワードを叫んだり運営に暴言を吐いたりする輩が普通にいて、ゲーム内外で所謂「厨房」の集まりだと見なされていた(私自身の罪状というと正直あまり覚えていない)。咎めてくる相手をキチガイ呼ばわりする所なんかは完全にDQNとしかいいようがなかった。

時は流れ、社会人になり何故か人を養う経験もした今になって、ふとしたことから黒歴史を思い出してしまった。ちょうどいい機会なので思ったことを書いておく。


何が悪いのか

自分達が楽しむために周りに迷惑をかけたり白い目で見られるというのは、外側にいる人間を蔑ろにしているということ。そんな性向は、真っ当な人生とは相容れないと思う。

仕事や家族に対して責任を持つと、立場の違う人間とも上手くやっていかねばならないので、意味もなく他所様と軋轢を起こすというのは感覚的に受けつけなくなってくる。安定した収入を求めただけの私でさえ意識せざるを得ないのだから、子育てをしたりすればなおさらだろう。

外に対して攻撃的な人間でも仲間どうしでは助け合うというイメージはあって、実際件のコミュニティでもメンバー間で仕事を斡旋していた。しかし、困っている人を助ける力も真面目に生きることで身に付くものと考えると、あまりフォローする気にはならない。

私は「卒業」したのか

そことは受験を機に関係を断ったが、ちゃんと卒業したとは言えないと思っている。楽しくなかった理由はモラルの問題よりは立場への不満のようなものが大きく、自分を省みることもなかった。姉妹コミュニティにはまともな人しかいなかったが、そちらでは窘められてばかりだったので私の性格に問題があったことは明らかだ(この人達までぶった切ったのは本当に良くなかった)。

以降入るコミュニティの柄は良くなっていったものの、トラブルを起こしたりしてどこも長続きせず、やがて一人で遊ぶようになった。これでは悪ノリを卒業したというより人間関係からのドロップアウトであり、ある意味「退学」といえるかもしれない。ゲームはぼっちのほうがいい、というのも一つの結論だが、多少なりとも青春を費やした割には得るものが少なすぎたと思う。

そもそも「入学」する必要はあるのか

ところで「卒業」「退学」という喩えだと、その前に「入学」が必要なことになる。若い内にはやんちゃをせよ、ではないが入学(今風に言えば「履修」か)する必要はあるのだろうか?

私のケースで言えば、学校でも周囲にこんな事をしてる奴はまずいなくて、多少なりとも人格形成に問題を抱えている証左だったと思う。その後の人生を振り返ると、上手くいかなかった部分の多くはこういう所に根差しているような気もする。顕在化しないまま大人になるよりは良かったかもしれないが、最初からこういう性質は持っていないのが一番だろう。

この歳になってようやく分かってきたのは、性格というのは表裏一体でも、マイナス面は抑えるようにすることが努力だということだ。「卒業」という言い方は、それにより何かを学び取ったというポジティブなニュアンスがあって、人に迷惑をかけるような事に対して使うのは欠点を正当化する意図を感じてしまう。正しくは「矯正」と言うべきでないか。

そう考えると「退学」という表現を思いついてこの記事を書き始めたのも、かつてアホな事をしていたことを美化する気持ちがあったからかもしれない。私は未だに大人になりきれてなくて、地味でも楽しい人生に辿りつくにはまだ時間がかかるのだろう。

その後どうなったのか

たかがネトゲ(当時はオンラインゲームをこう呼んでいた)の事なのに更生した不良みたいな話になっていて、実際陰キャオタクのくせにDQN丸出しなことをしたというのは我ながら度し難い。

既に述べたように、こういう所は人生で確実に足を引っ張る。あの時の私は自己顕示欲に囚われ手っ取り早く目立とうとしていた。そのせいで、顰蹙を買うばかりか、自分のやりたいことのために長期的な視点を持つことを放棄していたようにも思う。

それでも何だかんだで私は結構普通に生きている。元々良い所もあったからというのもあるだろうが、何より嫌な目に遭わないために必死になったのが大きい。真っ当に生きるということは、すなわち不幸のリスクを避けるという事である。

逆に言うと、真っ当に生きようとするきっかけが無ければ今もそのままだったかもしれない。痛い目にあっても気にしないとか、これも普通の人生みたいに考えるのならば、変わることはない。つまりはDQNなんだけど、価値観というのはそういうものだろう。

何にせよ生きなければならないのは確かなので、こんな記事を書いた私がどうなのかはこれからの人生で示していこうと思う。

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