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渇望は意思を持ち依存症者を襲う

こんにちはなのだ。
得たイさんのメインの自助グループで、あるまじき事態が起きたのだ。得たイさんはこの週末からずっと落ち着かない状況にあるのだが、得たイさん自身が渇望にやられないように意を決してこのことを書き残すことにしたのだ。

事の経緯

なんとソーバー(しらふ/依存をやめている期間)の長い女性の仲間が分かち合いで他の男性の仲間を罵倒して個人攻撃し、他の女性の仲間を引き連れてグループを出ていく事態が起きたのだ。残された仲間はみんな困惑し、得たイさんもゲロ吐きそうになったのだ。
事の発端は男女間の距離感のようなのだ。しかし得たイさんはそのあたりの問題を聞いたことがなく、得たイさん自身も気を遣ってきたのだ。ところがその仲間が言うには、女性の仲間からそういう(男性の仲間の距離感がおかしい)相談がいくつもあったらしいのだ。本人もぞんざいに扱われて傷ついたという話だったのだ。

しかし、性依存症の自助グループである以上は全員が全員異性との距離感がバグっていて当然であり、そして異性に恨みを持つ人達の集まりなのだ。全員が病気なのだ。こういうことが起こるのが当然であることを忘れてはいけないのだが、それを忘れてしまうこともまた病気なのだ。

渇望が仲間を乗っ取った

原因は明らかだったのだ。すべては渇望(依存再発に向かわせる衝動)がやらせていることなのだ。そしてそのことは、文献に如実に示されていることをハイヤーパワーが教えてくれているのだ。

渇望の第一の犯人は恨みなのだが、その恨みは被害妄想を生み出すのだ。それが依存症者に入り込むのだ。それは巧妙で不可解で、実にその人の隙をついてくる、だから用心しなければならないのだ。
そしてそれは回復しているかどうかを問わない、いやむしろ回復している人を狙うのだ。渇望は意思を持っているのだ。渇望の意思は、回復している仲間の経験と力を巧妙に操り、その人をコントロールして仲間意識(フェローシップ)を内部から破壊しようとするのだ。そしてその犠牲となった仲間が何人も出てしまったのだ。
渇望は智者の身に入り込むことによって正論を曲解し、それによって他の仲間を困惑させるのだ。渇望の働きは得たイさんの信仰における"信仰の妨げの原理"と一致するのだ。得たイさんの信仰も12ステップも同じ生き方の原理であるゆえに、その妨げになる原理の存在も一致するのだ。
結局のところ、相談する仲間が出てくること自体がその人に渇望が入り込む隙だったのだ。渇望はその隙をついてグループの男女間の分断を画策したのだ。それを確実にするためにソーバーの長い仲間を狙ったのだ。

この時のミーティングで読み合わせをした文献の内容を、司会の得たイさんは行き当たりばったりで決めたのだ。しかしそこにはスリップの原因と前兆が書いてあり、それは今そこにいる仲間の姿そのものだったのだ。アクティングアウト(行動化)が自分がどれだけ傷ついたかをわからせる手段に見え始め、他の仲間を独善的と決めつけ、グループが敵に見え始めるといった内容が、要所要所で今そこにいる仲間に当てはまっていたのだ。

まさにハイヤーパワーが、仲間が渇望に乗っ取られているその姿を得たイさんに見せるために、読み合わせに最適な場所を選ばせたのだ。そしてハイヤーパワーは得たイさんの一挙手一投足を動かしてほかの仲間にこれを示したのだ。グループに自浄作用が働いた、これがハイヤーパワーの威力なのだ。

世の中にもある「渇望の原理」

12ステッププログラムが生き方の原理であるように、渇望にも原理があるのだ。それは特別なものではなく、そこいらにありふれているものなのだ。
得たイさんが思い出すのは27年前にアニメ化した鬼神童子ZENKIなのだ。青年誌連載だったので若干性的な表現があり性依存症者にはオススメしないのだが、あれは実に渇望が破滅を招くことをわかりやすく表現しているのだ。

ZENKIに登場する禍々しいアイテム「憑依の実」は、人間の欲望を感知して取り付いてその人に人間離れした力を与え、欲望を吸いきったところで化物に変身するというものなのだ。
憑依の実はまさしく渇望なのだ。依存症者に巧妙に入り込んでその人を自動運転のように操り画策を重ね、そして常人離れした依存症特有の特殊能力を使ってアクティングアウト(行動化)するのだ。そしてそれを止められるのは、人間の力を超えたハイヤーパワー(前鬼)だけなのだ。

そして話が進んでくると、恨みの感情が身を滅ぼすことも忠実に描写されているのだ。ZENKIという作品が宗教の概念を用いた設定だから当然といえば当然の描写なのだが、これが現実に存在するということを大袈裟ではなくしっかりと認識しなければならないのだ。今回の件はそれを教えてくれたのだ。


明日は我が身

今回の件の仲間の姿は、明日の依存症者であり明日の得たイさんなのだ。渇望はその欲を達成するために極めて冷静に画策して事を進めるのだ。

小田急や京王の事件に見るように、恨みの渇望に乗っ取られた人は極めて冷静に行動化するのだ。そして隙あらば常人離れした特殊能力を解放して事件を起こすのだ。それが依存症者の常であり、大抵の場合はそれが他人に手をかけないというだけの話なのだ。
だから我々依存症者は、自分が被害者になることよりも加害者になることを恐れなければいけないのだ。むしろ被害者になる心配をすること自体が危険信号といっても過言ではないのだ。過剰な心配(恐れ)は被害妄想を生み出し、他人を加害する行動化へと向かわせてしまうのだ。

このことは仲間がグループと得たイさんに遺してくれた教訓なのだ。グループの大切な資産なのだ。そしてそれを、得たイさんは自身の回復とともに仲間に伝えていく責任があるのだ。
この事態の収束に向けて得たイさんは動いているのだ。それは得たイさんのグループへの奉仕であり、事の発端に思い当たる節のある得たイさんの責任を行動で示すことなのだ。そのためにグループの次のチェアは誰にも譲れないのだ。

得たイさんは命をかけて回復を全うしていく所存なのだ。

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