見出し画像

勝手にふるえてろ

えー、予告を見る限り、最近増えてきたインディー映画風恋愛コメディかなと思っていて、今、そういうの観る気しないなということで完全にスルー案件にしてたのですが、周りの映画好き(特に女性)が「観ました?観ました?」とやたら聞いてくるのと、ネットなんかでも評判が良さそうなので、単館系の映画だし、とりあえず終わる前に観に行ってみるかってくらいの気持ちで行ったんですが、いや、とても面白かったというか、かなり、好きなタイプの映画でした。

で、面白かったんですけど、これ、恐らく原作で主人公ヨシカのひとり語りの方式で読んでたら、もしかしたら好きになってないかもなって気がしたんです。あの、多くの人がこのヨシカは自分だと感じると思うんですけど、それは、この主人公に感じるウザさみたいなものを自分の中にもみつけるからだと思うんですね。で、僕もヨシカに関しては4:6でウザカワイイくらいの割合で観てて、ヨシカのことを好きになる通称"二"と呼ばれる渡辺大知さん演じるキャラなんかは、実際に近くにいたらかなりウザいだろうなというか、絶対友達にならないだろうと思うんです。(個人的にはこのふたりは僕は似てると思うんですよね。趣味とか考え方は合わないけど根本的なところで同じ様な弱さを持っている。だから、お互い面倒クサいと思いながらも惹かれるんだと思うんです。)で、自分もこっち側の人間だなと思いながら、(こっち側の人間じゃない場合は、例えばヨシカの脳内恋愛対象の"一"の様にもの凄く客観的に面白がる対象として見ると思うんです。)でも全面的に共感はしたくないという結構なアンビバレントな気持ちでヨシカの行動を「あーあ、やっちゃったよ。」などと思いながら観ることになるんですが、これを自分語りの心の声としてヨシカの心情をダダ漏れさせられたらほんとに嫌になってたと思うんですね。(ツイッターなんかで普段は言わない様なことを心の声として書く人いるじゃないですか。アレと同じで、分かるけどそれを言われたところでどうしたらいいんだよっていうウンザリした感じになると思うんですよ。)そこをこの映画はもの凄く上手くやっていて、この心の声をヨシカが生活の中でたまたま出会う人々に話しまくるっていう大胆でエキセントリックな手法に変えてるんです。

だから、割と最初からファンタジーと現実を行ったり来たりする様な構成になってるんですけど、(というか、妄想か本当かよく分からない半分夢見てる様な状態ですね。なので、ちょっと「ファイトクラブ」みたいな映画なんですよ、じつは。)そもそもヨシカというのは、高校生の時に二言三言しか言葉を交わしていない"一"のことをずっと想い続けているんですが、それは恋ではなくて辛い現実から自分を守ってくれる癒しの様なものだということもある程度気付いていて、そのことを客観的に見て、それでいいんだって思っている女の子なんですね。(で、そこに現実としてヨシカのことを好きと言ってくれる"二"が現れて右往左往するって話なんですけど。)そういう人を適度な距離を置いて面白がって観察するのに、この見せ方がとてもしっくり来たんですよね。凄く映画的な見せ方だと思いますし。(後半でヨシカがあることに気付いて、妄想世界が現実に侵食されていく場面があるんですけど、そこをミュージカルにしているんです。現実に気付いていくっていうとても切実なシーンをもっとも妄想的な撮り方にしてるっていう大胆さ。こういうのもの凄く良かったですね。)

で、この(ヨシカが精神的に追い詰められているにも関わらず笑えるエピソードを入れてくるっていう様な)俯瞰的な描き方、なんか知ってるなと思って観てたんですけど、森田芳光映画のクールさとエモさのバランスの取り方に似てるなと思ったんです。特に、「の・ようなもの」と「家族ゲーム」を思い出したんですけど、この2本も青春とか思春期みたいなエモーショナルな題材を、登場人物から距離を取って俯瞰的に描いているじゃないですか。で、そこに出てくる松田優作さん演じる家庭教師吉本が謎の人物だったり、落語家を目指す主人公キントトが何考えてるのかよく分からない掴みどころのないキャラクターだったりっていうエキセントリックさもあって、始まってからずーっとふざけてるのかマジなのかよく分からないトーンが続くわけです。で、ふざけたまま、愛すべき日常をゆるく捉えたままで終わっていくのかと思っていたら、物語終盤で、あれ?これ急に結構マジだなってところが、それまでのトーンを無視して出て来るんですね。(「家族ゲーム」の大学合格の祝賀パーティーのシーンと、「の・ようなもの」のキントトちゃんが落語を暗唱しながら深夜から朝まで東京の街を歩くシーンですね。)で、この映画も最後に"二"によって、そのマジなトーンがもたらされるんですけど。この構成が凄く良くて。あの、散りばめられた伏線が映画の中盤からちゃんと回収されて行って、(アンモナイトの異常巻きの話だったり、名前の持つ重要性の件だったり。)それによって、世界がうわ〜って全部ひっくり返されるんですけど、そこにそれまでのトーンを全く無視した"マジ"っていう事象が現れて全てを押し切るんです。つまり、へらへらといろんなことに向き合わずに生きてきたので"マジ"に耐性がないんですよね、主人公が。で、それはヨシカに感情移入して観ている自分もそうだったなと気づいて「ああ〜」ってなるんです。(あのラスト自体はベタではあるんですけど、ベタを否定して生きてきた人がベタによって押し切られるっていうメッセージなのかなとも思いました。)痛さを超えたとこにある良いラストだと思います。

僕、じつはこの手の(一般的にはダメと言われる様な)女の人が主人公の映画割と好きなんですけど、(「もらとりあむタマコ」とか「百円の恋」とか。)それらとはあきらかに違うなと感じたのは監督が女性だからでしょうかね。あの、僕が(というか、恐らく全ての男性が)女の人に感じる「一体何に対して怒っているのか分からない」という事象。理由がないのではなくて、そこに確固たる自分なりの理由(自分ルール)が存在しているんだけど、それについてはいちいち説明しないんだよ!っていう潔さ(ある種の男らしさ)みたいなものがちゃんと描かれていて、それがなんだか心地良かったんですよね。

http://furuetero-movie.com/
#映画 #レビュー #映画レビュー #勝手にふるえてろ

サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。