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小説【間法物語】1 PROLOGUEという名の寄り道

【間法物語】
日本語人が古来より持っている「魔法」がある。 それは「間法」
「間」の中にあるチカラを扱えるようになった時、「未知なる世界」の扉が開かれ、「未知」は、いつしか「道」となって導かれていく。

「間法使いへの道」を歩き始める僕の物語。
【PROFILE】
イエオカズキ 「間」と「日本語」の世界を探求し続けるストーリーエディター。エッセンシャル出版社価値創造部員。

僕は、『間法』使いだ。
それは、最初からわかっていたことだけど、ずっと長い間、遠回りをしてきてしまった。その長い道のりも、すべては、『間法』使いになるための必要なレッスンだったことが、今ではよくわかる。


「僕は、ずっと、感じてきたことがある。それは、きっと、世界のはじまりについてのことなんだけど。」

僕の中にいる、もう一人のボクは、今にも、話をはじめたそうだ。
だけど、ものごとには、順序があるし、それをわかりやすくパッケージするための遊び心も必要だ。一直線に、核心に突き進んでいきたいもうひとりのボクと、ゆっくりと、いろいろな伏線をはりめぐらせながら寄り道して遊んでいきたい僕との、絶妙な掛け合いをどう料理するかが、長年、ボクをやってきた自分プロフェッショナルな僕の、腕の見せ所っていう『ところ』なんだ。

例えば、このあいだ、ある『ところ』に、一面キレイなラベンダー畑を見つけた。もう美しくって、素晴らしくって、なかなかコトバにはできないし、かといって、独り占めする気にはなれないし、何より、せっかく生まれてきたんだ、感動は、自分だけでシェア(所有)するんじゃなくて、誰かとシェア(共有)したい・・・まあ、僕の場合。とにかく、このサイコーなラベンダーの世界を、まずは、大好きな彼女にも見せたい。

「キレイなラベンダー畑があるから、見に行こうよ。」一刻も早く見せたいからと、彼女を連れて、とにかく目的地に急ぐ。行く途中の車の中では、いかに、そのラベンダー畑はサイコーで、自分がどこに感激したか、さんざん話しまくる僕。そもそも、コトバにできない景色だからこそ、見せにいきたいと思ったのだ。だから、当然、彼女には、よく伝わらない。でも、僕が、これだけ熱心に話すから、その熱ささだけは、まあ、伝わっている模様。とにかく、少しでも、この感動をわかちあいたいからね、話したいのだ。

   ・・・というあいだに、さあ、到着。
   ほら、一面のラベンダー畑。
   「ホントに、言った通りね。スゴーーイ。」と言って、
    彼女は喜んでくれるよ、もちろん。
    みてみてみて。キレイでしょ。スゴイでしょ。
           これは、もうひとりのボクの、素直で純粋な気持ちの表現だ。

いいじゃない、そういうことで。もちろん、いいのだ、それでも。だけど、時には、遊び心がくすぐったりもするよね。とっておきの大切なものを、とっておきの大切な人に、見せてあげようと思ったら、いろいろと細工と工夫をしたくなったりするんだよ。

例えば、僕の場合。「今日は、いい天気だから、ドライブにでも行こうよ。」何の気なしに誘ったよ、という素振りで、何の気配もさせないように、彼女を誘う。まずは近くの自然がタップリの公園を楽しむ。外の空気にふれれば、もう、これだけでもかなり気持ちいい。小高い丘まで少し足を伸ばして、ちょっと高いところの景色を楽しむ。高いところでは、お弁当を食べよう。やっぱり、外でメシを喰うとうまいのは、空気の味が違うから。
空気にも味があるんだね。
空気がうまいと、『食う気』がそそられる。どんなに美味くて有名なおしゃれなレストランでも、色気ありありで食べてたら、空気にまで色がついて、なんだかお互い気まずくなったりして、せっかくのディナーまでも、まずくなったりするもんね。

それから、今度は、川岸のほうに下って、川の流れを観察しよう。
水の流れって、長めに、眺めれば眺めるほど、楽しいもんだよ。

時の流れを永めに眺めることを、ニッポンでは、『和む』って、表現するんだけど、時間という、一見絶対的に見える存在が、『和む』という手法を使うことで、不思議なベクトルに流れ出すことを、昔の人は、経験上、よく知っていたらしい。確かに、彼女と一緒に、のんびり和みながら、川の流れを眺めたりしていると、時間がゆったりとしてきて、何とも言えない静かな気持になってくるんだよね。

『寄り道』というアソビは、一見遠回りのようにも見えるけど、『よりいい道』を選んでいくために、このアソビを意図的に入れることは、人生というナビゲーションシステムの、とっても大事な一部だと思うんだ。車のハンドルも、アソビがないと、うまく運転できないように、人生という、この長く流れる時間の旅行を楽しんでハンドリングしていくには、この『アソビ』のテクニックは、どうしても欠かせないものだ。

公園も、丘も、川も、弁当も楽しんで、もうかなり満足。
帰り際、「もうちょっとだけ、寄り道してもいいかな。」と声をかけてみるけど、彼女の方は、すっかり、アソビモードになっているから、車に揺られた瞬間、いい感じで、もう既にオヤスミモード。
ラベンダー畑についてみると、この素晴らしさが、身体でキャッチできるようになっているから、もう声も出ない。本当にいいものを見たときって、コトバは止まっちゃうもんなんだ。日が暮れはじめたのを感じながら見るラベンダー畑は、さらに美しさを増していて、僕も、この時間帯に、こんな違ったラベンダーが見られるなんて、来てみるまで、わからなかった。
ひとりで見るよりも、やっぱり、ふたりで見たほうが、断然、いいねえ。ラベンダー畑の光景は、今日の物語のエンディングにふさわしい出来で、プロデューサーの想像を超えた仕上がりに、自分が最も満足したりする。
まあ、大体、気配なんてものは、一枚も二枚も、女の子の方が敏感だから、彼女は当然、僕のそんな気配は最初からお見通しで、それでも、僕のアソビにつきあってくれたんだけどね。

僕は、お釈迦様の手のひらにいる孫悟空のようなもんで、
「孫悟空が、宇宙の果てまで、キントーンで飛んでいって、その宇宙の果ての柱にシルシをつけて帰ってきたら、その柱は、お釈迦様の手の内だった。」という話じゃないけれど、
まあ、男の子がいろいろ寄り道して遊びたいんだという、相当、『無・リアル』の、無理ある強引理論を、寛大な思いやりと、話半分に聞き流し気味のおおらかさで、女の子は、いつも受け入れてくれるんだ。

そもそも、ニッポン人は、昔から、『アソビ』に、「ビ」を見いだすことに長けていたから、アソビをアートにまで昇華させ、跡として、後に残すことができたんだと思う。

華道・茶道・歌舞伎・相撲・書道・俳句・・・
すべては、アソビという道の道具だった。

どんなことでもいいんだけど、アソビを、心ゆくまで、思いっきり遊び尽くして、アソビ心を消化すれば、アソビ道具だったものには、タマシイが宿り、イノチに昇華する。
『道具』というのは、生きているからこそ、『動具』として使われ、長い年月、人の心に染み渡っていくんだ。だから、ドウグは、昔は、サワグやイソグやカツグといったコトバと同じく、動詞として使われていたのかもしれない。

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というわけで、『世界のはじまり』という、最高のラベンダー畑を紹介するためにも、いろいろ寄り道をしていくことが、必要だったりする。

それが、前置きという名の、別名、序章という表現の、じらしのテクニックだったりするんだけど、ものごとの説明というやつには、「はい、これですよ」と、直接見せる方法も使えるけど、遊びながら、遠回りして、伝えていく方法ももちろん有効であり、僕はどちらかというと、いろいろなことに興味があって、次から次へと目移りして、あれもこれも欲しいなあと、いつも好奇心満々で、たえずフラフラしている男の子だったから、既に自己弁護をタップリと含みながらも、ゆったりとプロローグの寄り道をしていくことにする。

今はそんなことを余裕ぶって言っている僕も、せっかちだったときが確かにあって、目的地に直行して、一目散に見て食って買って、速攻で帰る・・・みたいな旅をさんざんしてきたし、いかに一日で、目的のスポットを数多くまわれるかを用意周到に計画するなんて、あわただしい旅もいろいろしてきたんだけど、そういう旅は、結局、状況的には正しいことがあるかもしれないけど、全く楽しくはなかったんだよね。
せわしない旅って、たとえ、目的は成功するかもしれないけれど、そこには、決して物語は生まれないんだ。誰の世話にもならないし、誰の世話もしない、そんな『せわしない』人生の旅を、気取って続けてきた僕は、物語のひとつも持てない、本当に世話の焼ける子供だったはずだ。

かつてのニッポン人は、「タビ」に、「ビ」を感じることができたようで、一瞬一瞬を慈しみながら、過ごしていた。だから、一生のうち、度々度々、旅に出かけては、美しい風景に、「ワビサビ」という「ビ」を感じていた。四季の移り変わりに「ミヤビ」を思い、自然の叡智に「マナビ」を受け、人と人との「ムスビ」に酔いながら、生きる「ヨロコビ」を味わっていた。ムカシのニッポン人って、そんな存在だったんだと思う。

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存在・・・このコトバの意味には、僕は、どういうわけだか、昔から、興味があった。∃=存在する。数学ではこういう、記号を書くんだ。
英語で書けば、BEING。
まあ、つまり、BE動詞のことだよ。

ニホンゴでは、『ビ』を大切にして、
英語では、『BE』を重要視する。

HUMANと HUMAN BEINGの違いは、このBEINGにあって、
『人』と『人間』の違いは、『間』があるのが人間で、
『間』がないと、ただのヒトになってしまうという話に続く。
だから、英語の、『BE』とは、ニホンゴでは、『間』という存在のことだったりする。

普段、『間』はなかなか見えないものだから、人は、コトバを駆使して、何とか、その『間』をつなごうとする。「まあまあ」、なんていいながら、『間』を恐れる人って、最近、多くない?間が持たなかったり、間が悪いと、デートしてても、気まずくなったりするからね。

『間』は見えないんだから、この『間』を、どんな風に表現しようと、それはそれぞれの人のやりたい放題。『縁』と名づけて、運命をデザインしてもいいし、『関係』と名づけて、ふたりの将来を話すのもいいよね。『雰囲気』と名づけて、「いい雰囲気だね、ハハッ」と強引な展開に持っていくのもありだろうし、『空気』と名づけて、どこまでが自分の空気なのかの所有権訴訟をしたって、それはそれでかまわない。

とにかく、音にして名づけてしまえば、目に見えないものは、支配することができる。
こうやって、人は、見えないものを、支配するために、『間』の取り合いを始める。

無限に広がっている間隔を音で分けようと敏感になればなるほど、
融通無碍であるはずの本来の感覚は自分と分かれて鈍感になっていく。

『間』は、『アイダ』とも読めるから、ニホンゴで、『間』は『愛だ』ということにもなる。
ニホンゴの『愛』とは、アダムとイヴのような、「ア」と「イ」の音が出会い、結ばれることを指しているし、ちなみに、英語の「I」とは、私・自分・僕という、自らが主であることを、自ずから指差している。

まあ、そんなことは置いといて、ヒトと人間の違いは、要は、『間』があるかどうかなんだよね。僕は小さい頃から、その『間』が、ずっと気になってしょうがなかった。子供だった頃の僕は、『間』をうまく扱えるようになることこそ、大人への階段だと信じていたらしい。
同世代の男の子達が、ミニカーやら、プラモデルやら、アイドルやら、アニメーションやらに夢中になっている姿を、僕は、ちょっぴり醒めた目で見ていて、それよりも、どうやって、『間』を自分のものにしていくか、そればっかりを考えるようになっていた。

ボーッとしながら、遠くを眺めるような感じで、身体の力を抜いて、放心していると、『間』というのは、少しずつ、スガタを現してくる。
その『間』をハッキリと感じるようにしながら、自分と『間』の境界をボンヤリとさせるのが、僕の個人的なホンワリとした遊びだった。そんなことばかりしているうちに、いつしか、友達や親や先生とは、どんどん『狭間』を感じるようになってしまった。多分、そんなこと、彼らは気づいていなかったはずだけど。そこは、うまく『間』を読んでいたからね。

『間』に敏感になればなるほど、『間』というものの膨大さに圧倒され、絶望し、寄り道して遊んでいたつもりが、いつの間にか、とんでもない迷路にはまってしまった迷子のような気分になった。
『間』は、自分のものにしようとすればするほど、どんどん自分のほうが『間』の方に取り込まれてしまって、どっちがどっちだか分からないような、不思議な感覚に包まれてしまうんだ。
そこは、あたかも、『海』のような場所なんだ。
一体、『海』とは、どこからどこまで、どの部分を指して、『海』と呼ぶのか、見当がつかないように、『海』は、さまざまなものを取り込み、循環させ、全体として命であり続ける。

『間』には、あきらかに何らかの独自のシステムがあるような気がしていた。
もちろん、ただの勘なのだが、妙に、そのことには、絶対的な自信があった。
簡単に言ってしまうと、それは全てをそのまま包み込んでしまう、
自他混流プログラムみたいなものなんだけど、
なかなか厄介なのは、
『間』を見分けようと、『間』に意識を向けた瞬間から、
『間』と『自分』の境が、どんどん混じっていってしまうので、
どこからどこまでが、『間』システムか、気づくと、分からなくなってしまうことだ。まさに、『間』も、『海』と同じように、『全体』というイノチを持つ生命圏なのだ。

僕は、この『間』のシステムのことを、『間法』と名づけた。

『間法』を自由自在に使えるようになりたい、それは、僕の心からの願いだった。
もちろん、『間法』を扱えるようになれば、きっと、女の子にだってモテるし、金持ちにだってなれるだろう。もう、好き放題のやりたい放題だ。
そんなアホなこと、人には言えないから、これは、僕だけのコッソリとした秘密になった。

本当のことを言えないのは、思った以上に、つらいもので、だんだん、僕の中に疲れがたまり始めていった。『疲れてくる』と、皮肉なことに、その理由を、人からどんどん『突かれてくる』。外から突かれてくると、人間は習性として、本能的に、体を固めて防御するようで、僕はさらにかたくなに秘密を守り続けることになってしまった。


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僕のココロの中には、いつしか、高い城壁が出来ていた。
城の中には、僕の心からの願いが、隠された。
それもすべて、僕が『間法』使いになるための必要な道だった。


(つづく)


想いを込めて作った書籍を応援してもらうことに繋がり、大変嬉しく思います。 また本が売れなくなっているというこの時代に、少しでも皆様にお伝えしたいという気持ちの糧になります。