見出し画像

自己肯定の外部委託。

こいつは馬鹿なんじゃないか?
くだらない意地張って周りから引かれてらあ。
こいつと一緒にいてもつまらねえな。

僕は他人に対してこんなことを思ってしまうことがある。
所謂、最低な人間。



今、卒論を書くためにウィトゲンシュタインの本を読んでいる。
僕のあまりの単位の不足ぶりは、毎回しつこいくらいに書いているからそろそろ飽きられている頃だろう。しかし言わせてほしい。テスト期間忙しすぎる!!

と、そんなわけで、僕は毎日、哲学の分厚い本を電車の座席で広げている。

電車で移動している時間が好きだ。
なんせ、1秒たりとも”無駄”ではないのだから。毎秒目的地に向かって移動しているあの感覚は、蛇のようにグルグルと体を締め付け続けるあの焦燥感を幾分か和らげてくれる。

何もしていなくても意味が発生し続けているその安らぎの時間を使って、僕は哲学の本を読んでいる。なんて意味に溢れた時間なんだ。
そんなことを思いながら、ウィトゲンシュタインの哲学探究を読んでいた。

すると、僕の方に目を向けている人がいることに気がついた。それも一人や二人ではない。少なくとも6人とは目が合った気がした。

僕は自分の状況を確認した。席を2人分占拠しているわけではない。荷物や、広げている本が隣に座っている人の邪魔になっているわけでもどうやらなさそうだ。それならどうして、こんなにも見られているのか。

実際に見られていたかどうかはわからない。だが、僕自身が見られていると認識する、または、誤認するような恥ずかしさが、「哲学本を電車の中で読んでいる」という行為から発生していることは明らかだった。

僕は大きな声で、「これは今日発表しなければならないゼミの課題なんです!」と訴えたかった。自分の意思で哲学本を読んで、悦に入っている人間だと思われたくなかったのだ(自分の意思で読んでるし、悦に入っていたのに)。

だが僕は読み続けた。ただ意地を張るためだけに。

僕は、くだらない意地を張って周りから引かれていた。

普通に読んでいても理解できないほどに難解な内容が周りの目を気にしている状態で頭に入ってくるはずもなく、僕はその時、意地を張って哲学探究を眺め続ける世界で一番ダサい人間だった。


家に帰って、再び本を開いた。
今度はしっかりと内容を理解するように努めながら、僕は慎重に文字を追った。

なぜか、電車での光景が突然思い出された。
きっと実際には誰も僕のことなんて見ていなかった。なのに僕は人に見られているという幻想に惑わされ、上手に使えたであろう貴重な時間を人からの目を気にする事に費やしてしまった。

ストレスが溜まるとこういうことが多くなる。

僕はストレスが溜まると人のことを否定してしまう癖がある。口には出さない。心の中で、自分が正しくて相手が間違っているという謎理論を無駄構築して自分を保とうとしてしまう。
これは一種の自己肯定だ。他人と比較することで自分を正しいものと認識する方法。

だが逆に言えば、自分が正しいという謎理論を無駄構築できなくなった瞬間に、ストレスの溜まった僕は自分を保てなくなってしまう、ということ。危うい。

そこで、ウィトゲンシュタインの考え(超絶怒涛の表面的な理解)が僕の心にすっと入ってきた。彼は、一つのイメージ(考え)に固執することで窮屈な思考をしてしまう、的なことを言っている。と僕は思う。正しいかどうかはわからん。
まあ何はともあれ、この考えがなぜかすっと入ってきて、僕は思考のパラダイムシフトを起こした。

人、肯定してみる?

ストレスが溜まりに溜まっている時の僕の頭の中は、「煙草吸いたい」か「あいつバカだな」だった。

しかし、一番バカなのは僕だった。

電車の座席で頭の良さそうな本を広げている人を見ると、僕は「アピールしたいのかな、だっせ」とかなんとか思っていた。そんな思考が存在しているから、自分の行動も窮屈になるし、人からそう思われているんじゃないかと無駄な勘ぐりをしてストレスになったりするんだ。

自分が理解できない本を読んでいる人がいたら、まずはその人の読書への姿勢を褒めろよ。そして自分もその人と同じくらい難しい本が読めるように努力しろ。


僕は、自分で自分を肯定すると妙な矛盾に陥ってしまう性らしい。
それなら、自己肯定は外部に依頼して委託してみようと思う。



そして外部委託によって空いた手で、僕は他人を肯定する事にしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?