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すずめの戸締まり 感想(長い)

期待しないで見に行ったら凄かった

コロナ禍以降、あんまり映画館に行ってない。寂しい。でも新海誠作品は観たい。売れてはいるけどそこまでバズっていない気がする本作はどんな作品なんだろう。「けじめをつける映画だ」という制作発表記者会見を見た覚えはあるけれど、どういう意味なんだ?

この感想の要点

  • すずめの戸締まりめっちゃ泣ける

  • 新海誠は日本のアニメ監督No,1に挑戦している

  • 自分の従来の手法すらも上書きして新しいことに挑み、成功している作品

  • この映画を見て一番刺さるのは被災者遺族かもしれない

新海誠監督はめっちゃチャレンジングなアニメ監督

新海誠監督は作画も動画も吹き替えも何もかもをワンオペで完成させるインディーズアニメ監督の恐らく始祖としてデビューした。デビュー作から一貫して「会いたくてももう会えない運命の君」への想いを表現してきたし、その表現はいわゆるセカイ系(自分の頭の中で思えば世界全体が変化してしまう都合の良い世界のこと)の系譜とも呼ばれていたと思う。
そんな監督の作品は一部のマニアにはウケたが、まさか大衆アニメ・大作映画として発表される時が来たときは驚かされたものだ。
「あの片想い系アニメの新海誠がジブリ並みの予算で大作を?」
「ウケるわけないじゃん、独りよがりの作品になるに決まっている。」
という映画オタクの事前予想を覆し、公開された「君の名は」は日本はもとより世界のアニメの興行成績を塗り替えるほどのヒットを果たし、監督の名は宮崎駿と比較されるレベルまで轟いた。これには本当に驚かされた。
新海誠監督は今までの自分の方法論を躊躇なく見直して、見事重責に耐えてヒットメーカーへと変身したのだった。

新海誠監督は「君の名は」で「今までの自分を否定」した

彼が「君の名は」を制作する際には、映画の方法論を全て1から勉強し直し、自分の描いた脚本を信頼できる人に徹底的にダメ出しもらってそれを逐一修正したとのこと。こんな謙虚なことする映画監督、他に思いつく?

震災映画の申し子として

ヒットした「君の名は」は震災映画だった。近いタイミングで公開された「シンゴジラ」も同様だった。東日本大震災の発生からそれなりに時が流れ、人々の話題にも登らなくなっていた頃のようだったに思う。そのタイミングで、震災を彷彿とさせる演出をした映画が2本立て続けに大ヒットした。
映画は時代の写し鏡なのだとこのヒットを見て思った。
しかし、この2本は震災映画であってもヒットの仕方が異なった。
シンゴジラは海外ではヒットしなかった。熱心なゴジラマニア以外には日本人独特の空気感が生み出す群像劇が理解できなかったからだと思う。
しかし君の名ははちゃんと世界でも受け入れられた。これは、隕石落下という被災を男女の恋愛と結びつけたことが大きいと思う。恋愛と別れという万国共通のウケる要素はこの映画が受け入れられる下地として機能したのだろう。
そして、深層心理下で未だ被災体験を克服していない日本人にとっては東日本大地震の被災と恋愛の映画としてヒットしたのだ、とはよく言われている。
(私個人の感想としては、極めて見やすく、楽しみやすい映画を上手に作ったからだというものだけど、震災映画として語られることが多い気がする。シンゴジラはモロに震災映画だとは思ったけど、君の名ははそこまで震災か?と思った。)

ネタの消費と忘れてはいけないもの

しかし、そんな大ヒットした映画も、時が経てば風化する。「”君の名は”は美男美女だからヒットしたんだ」という皮肉が当時は流行ったものだ。つまり、被災をテーマにした映画でも、個人的な恋愛映画として解釈した人が多かったのだと思う。「所詮は恋愛映画でしょ?」という評価に新海誠監督はもしかして悩んだのではないのか?
それを受けて制作された「天気の子」は異常気象をテーマにしたものだった。その映画では、天変地異を起こしてしまった男女が、自分の命と引き換えに世界を元に戻すことを拒否し、変化してしまった後の世界で生きていくことを選択する。
この映画では、変化を受け入れ、運命を選択した主人公たちが印象的だった。
「ただの恋愛映画では終わらせない」という新海誠監督の意志がビンビンと伝わる作品だった。一過性のエンタテインメントとして消費される恋愛映画に収まらない映画を目指し始めたのがこの作品だったと思う。
使い捨ての娯楽にならない映画を作りたいのなら、忘れてはいけないものを映画に込めればいい。新海誠監督はきっとそう考えたのだろう。「美男美女の個人的な恋愛」の対極にあるものは何か。

ファスト映画文化と劇場で見ることの意味

近年ファスト映画や倍速視聴文化が隆盛しているが、劇場で映画を見ることはその対極の文化であると言えるだろう。つまり、使い捨て娯楽映画にならない映画とは、劇場で見る価値のある映画だと換言できるのではないか。
ちなみに、今回の「すずめの戸締まり」では私は不覚にも劇場で泣いてしまい、マスクの中に大粒の涙が溜まってしまうというコロナ禍らしい体験をした。こんなふうに泣ける劇場視聴体験は素晴らしいと思うが、映画をネタとして消費するファスト映画などの視聴方法で泣くことは不可能だろう。
また、本作では映画のクライマックスの泣かせどころに極めて社会的にセンシティブな内容を持ってきている。こういう内容は、気楽に見てはいけない。劇場の凜とした雰囲気の中で、自己と対話をするように試聴するべき映像だと感じた。本作は気楽に見て消費できるような作りにはなっておらず、まさしく劇場映画だと感じた。

震災映画と個人の映画

新海誠監督は被災映画でメジャーデビューし、自分のデビュー作からの「セカイ系片想い」というテーマで大ヒットを飛ばした。
東日本大震災という重すぎるテーマは、他の日本を代表するアニメ監督もモチーフにしたが、あくまで味付け止まりの引用だと感じた。(庵野秀明監督のエヴァ破の使徒討伐時の津波表現、同監督のシンゴジラの第二形態が街を爆走するシーン、宮崎駿監督のポニョの津波表現(これは震災前から作っていたけど)、同監督の風立ちぬの関東大震災のシーン)
彼らの作品はそれぞれ震災をスパイスに作られてはいたが、最終的な作品の結論は”被災者”とは無関係のところに着地していたようにも思う。(エヴァ破はビジュアルエフェクトに過ぎないし、シンゴジラは復興と脅威との共存と組織のあり方がテーマだし、ポニョや風立ちぬは内容がぶっ飛んでいてそもそも震災は一つのエピソードに過ぎない扱いだった。)
それは”君の名は”で恋愛エンタテインメント映画を作った新海誠監督も例外ではないと思う。
新海誠監督は本作において、被災者と真っ向に向き合うことで映画監督として前に進もうとしたのだと感じた。


宮崎駿と庵野秀明

新海誠監督がどういう思いで本作を作ったのかは知らないが、私はこの映画は監督の「日本のアニメ業界をリードしていく」という決意表明だと感じた。
それは挿入歌に宮崎監督および庵野監督の映画の歌がサラリと使われている場面でも感じる。「ルージュの伝言」は作中に「猫と旅するときはこれっしょ」というだけで軽く挿入されるし、次にかかる曲は「夢の中へ」で、これは庵野秀明監督の実写映画デビュー作のエンディングテーマだ。
この選曲は、ジブリファンはライトユーザーだから引用してもおおらかに見てくれるけど、エヴァファンは軽く引用すると「パクリだ」と批判してくる心が狭い人たちだから、庵野作品のマイナーな部分から引用したのではないのか、とか邪推してしまいたくなるくらいに意味があると思う。
扉から出現したミミズが空へと伸びていくシーンはもののけ姫の「ダイダラボッチ」そっくりだし、その触手が頭上を通り過ぎるのを見上げるカットはシンゴジラの尻尾のカット(予告編で使われた)にそっくりだし、ミミズを戸締まりして討伐した後に起こるスペクタクルはエヴァ破の使徒討伐シーンにそっくりだ。
今回はあまりにも両監督へのオマージュが挑戦的になされていて、新海誠監督のチャレンジングな姿勢が画面から見えてくるようだった。君の名はや天気の子にそんなオマージュは無かったのではないかな。
椅子とか猫がマスコット化するのも、ジブリ作品へのオマージュのような気がしてならない。猫なんて完全にジジ(魔女の宅急便)扱いだしね。

テーマソングとRADWIMPS

メジャーデビュー後の新海誠監督作品のBGMといえばRADWIMPSだというイメージがあるが、それは君の名はだけの話で、天気の子では半分は別のボーカルが歌った歌が使用されていたと思う。RADWIMPSの楽曲は素直で健気で爽やかでシンプルで、というイメージがあり、これが新海誠作品と極めて親和性があった。しかし、それは多用するとマンネリや陳腐化を生む。結果、作品を重ねるごとに作中のRADWIMPSのボーカル濃度は薄まっていき、本作においてはエンディングテーマまでそれがかからない。これは正しい判断だと思う。映画において唐突に挿入される歌はミュージカルみたいで軽々しさがあると思う。君の名はは本当に絶妙なバランスで成り立っていたと思う。

キラキラした街の意味

新海誠監督作品の代名詞の一つが「キラキラしていて(無駄に)美しい風景」だろう。でも、君の名はではこれが「田舎から出てきた都会に憧れている娘の視点」とリンクして意味があった。天気の子でも同様に意味づけがあるだろう。
新海誠監督作品においてキラキラした街の描写は登場人物の心象風景とリンクする。意味もなくキラキラするのは映画キャシャーン(古い)の画面エフェクトでお腹いっぱいだ。
本作においては、キラキラした日常は「かけがえのない日常」という意味で表現されている。本作では頻繁に被災の予告が登場するが、そのスペクタクルの前にキラキラした日常が挿入される。主人公たちがミッションに失敗したらそれは失われてしまう、そんな切羽詰まった感じを演出するのが本作における「キラキラ表現」なのだと思った。

心情吐露と気まずさの意味

新海誠監督作品で、君の名はの前の作品に「言の葉の庭」がある。この映画は孤独な男子高校生と孤独なOLが綺麗な公園(新宿御苑)で仲良くなり、映画のクライマックスで喧嘩する映画なのだ。それまで本音を隠して建前で付き合っていた二人がクライマックスで本音を吐露して気まずくなってしまうのがハイライト。主人公が本音を相手にぶつけた瞬間にカメラが上空に飛び上がる演出には驚かされた記憶がある。で、この映画ではその本音のぶつけ合いが原因で二人は疎遠になってしまうのだが(かなり昔に見てうろ覚えだけど)、その気まずさこそがこの映画の主題だったとも思う。孤独の傷を舐め合ってもそれは一時凌ぎにしかならない、みたいな。
しかし、すずめの戸締まりではこの表現にも踏み込んでいる。新海誠監督作品は、自分の過去作での消化不良を新作で克服するのだ。
すずめの戸締まりでは心情吐露がなされ、主人公と育ての親の間にわだかまりが生まれてしまうのだが、この脚本の処理が素晴らしい。まず、感情任せに相手を罵ってしまう原因に超常現象を持ってきていて「仕方ないな」という言い訳が立つし、何よりそれを踏まえてその後のシーンで二人が「言い過ぎた」と謝罪しあって仲直りする。罵り合いを映画のクライマックスに持ってくる映画監督の同じ作品とは思えないくらいに大人びた表現がこの映画にはある。

誰に向けた映画か

大作映画なのだから、万人向けているものではあるが、特に意識している対象は日本人の、それも被災者や被災者遺族がターゲットだろう。前述のように、本作は「美男美女の個人的な恋愛映画」ではなく「被災者と真っ向に向き合う映画」なのだ。
主人公は震災孤児で疎開先から始まるストーリーである。ストーリーの終着視点は避難命令によって放棄された被災地だ。
そして、映画のクライマックスでは、主人公が自分自身を抱きしめて癒すことになる。これが凄まじい。見ていて、猛烈に泣けた。

グッドウィルハンティングという映画を思い出した。私の大好きな映画で、この映画では心に傷を負った天才と敏腕心理カウンセラーの交流が映画のハイライトだ。カウンセラーが天才の傷ついた心を癒すべく「お前は悪くない」と言葉をかけ続ける。天才は心を全ての人に閉ざしていたので激しく抵抗するが、唯一心を開きかけていたカウンセラーの繰り返す「お前は悪くない」という言葉についにトラウマを克服する。
本作のシーンでも似たようなカウンセリングのシーンが出てくる。とても強烈で、主人公と似たような境遇の人が見たら過呼吸になったり、嘔吐してしまうんじゃないのかと心配になるくらいにシーンの緊張感が凄まじかった。
本作の上映スケジュールを映画館のサイトで確認すると、

「本作には、地震描写および、緊急地震速報を受信した際の警報音が流れるシーンがございます。警報音は実際のものとは異なりますが、ご鑑賞にあたりましては予めご了承いただきます様、お願い申し上げます。」

なんて注意書きがある。確かに本作ではシンゴジラのEM20のように繰り返し警報音が流れるが、配慮してか実際の警報音とは違う音が当てられていた。
しかし、それよりもクライマックスのトラウマ克服シーンの方がよっぽどしんどいと思う。被災者遺族の人、正視できるのかな?自分だったらできる気がしない。

でも、新海誠監督は、きっとそういう立場の人に向けて作っているはずだ。
本作は、そういう繊細なことに対して力強く踏み込んだ傑作なのだと感じた。

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