「あの子は貴族」という映画に見る日本社会のうっすらとした分断

「あの子は貴族」という映画を最近見たんですよ。でとにかく人におすすめしまくってる。
山内マリコさん原作を映画化したものですが、この映画がなかなか秀逸で、というのも日本社会のうっすらとした分断を生々しくも正確に描いている気がする。

ネタバレにならない程度に話すと、松濤の一軒家が実家の開業医の娘幼稚舎から慶應みたいな門脇麦と地方(富山)出身頑張って慶應に行ったはいいが親の金銭問題もあり結局中退、水商売の世界に行く水原希子を対比させながらそれぞれの東京、それぞれの社会を描いているのだが、フィクション的な面白さもありながらもフィクションで笑えないリアルなエキスも多分に溢れているのである。

そりゃ地方でブルーカラーの親の家に生まれればなかなか美術館に親と行く機会もないだろうし、海外旅行とかアフタヌーンティーなんて「は?なにそれ」っていうところだと思うのですが(僕もそうだった)、それがなまじ勉強ができて上京したり東京以外であっても比較的偏差値の高い大学に進学などすると中学校から私学ですとか親は上場企業役員ですとかそういう人たちとエンカウントしちゃうわけですよ。この映画の中でもそうしたエンカウントのきっかけとして(1)進学(2)水商売というのが描かれていて、ああこういう細胞壁でなく細胞膜的なある程度のフィルタリングはありつつも必ずしも交わらないわけではないところが日本社会だな、と強く印象的だった。これが英国とかだったらまたちょっと違うのではなかろうかとなんとなーく思ったわけです(詳しくわかないのでJust Impression)。

映画の中でも門脇麦サイドが日本橋の三井のお雛様展に昔から母と行ってて......というところに対して水原サイドが「え!?親と美術館!?」みたいにびっくりするシーンがあるのですがこれはまさにブルデューの文化資本の世界な訳です。門脇麦が(さらに)いいとこの息子と懇ろになるようなシーンでもいわゆるお嬢様教育を受けてることがわかるような所作が所々にでてきて「ひゃあ」って気分になっちゃう。
ああ、一定数こういう人たちもいるのだろうな、という。

この映画はただこういう人たちも、っていうところから一歩踏み込んでいわゆる本来違う階層の人たちの邂逅をごくごく自然に表現していて僕がもしどっかの大学で新入生の社会学概論とか社会階層論的な授業を持てるとしたら初回のイントロとしてこの映画を見せるのはかなりありなんじゃないかな、と思った。

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