【健康で文化的な最高の土曜日:後編】 俳句を詠むようになった話

2019年12月21日。夕暮れ時の定禅寺通りを、1人のアホが地下鉄駅に向かってひた走っていた。

アホは全力疾走した。必ずや、あと30分くらいで次の目的地に着かねばならぬ。アホには高尚な芸術が分からぬ。しかし、面白そうなことに対しては人一倍敏感であった。


さて、文化的な土曜日後半が幕を開ける(急に素に戻る)。この日、1人のアホが人生初めての句会に参加した。時間に余裕をもって移動すれば良かっただけの話なのだが、如何せんアホなのでギリギリまでメディアテークにいたのである。

これまでの人生で俳句を詠んだ経験はほとんど無かった。一応、小学校の授業なんかでやったのと、大学入ってから機会あって1回。でも、ゼロに近似できるレベルだ。

そんな俳句経験値ゼロだった私の、俳句に対する第一印象はこうだ。

風流。

高尚。

孤独。

「風流」と「高尚」については同意を得られるかもしれない。「孤独」については、なんかこう、世間の雑踏から隔絶された小さな日本家屋で老人がたった1人、筆と短冊だけ持って何時間も縁側に座って、移ろいゆく自然を五感で感じながら言葉を絞り出している…みたいなイメージよ。そんな人見たこと無いけど。

まあとにかく、自分とは縁の無いものだと思っていたのだ。花の名前とか知らないし、河原で遊んでいても「ここで一句…」なんて考えたことが無い。せっせと水底の石をひっくり返してヒラタカゲロウでも探す方が性に合っている。

それでも、無鉄砲なアホは句会に飛び込んでみた。そして、例の如く「なにこれ…楽しい…」となって帰路についたのである。世の中はやったことのないことに満ち溢れていて、たぶんそのどれもが、やってみたらすごく楽しいんだと思う。チョロいと言われれば反論の言葉も無いけれど、楽しいことは多い方が良い。



春の蜘蛛の巣

話を戻そう。私がこんな風に俳句を好きになったのには、きっかけがある。まず、「季語信じようとして、季語信じられなくなって、また季語信じた話」をしよう。

昨年の春、吟行に参加する機会があった。その際、著名な俳人の先生から「季語を信じよ」という言を頂戴した。「季語を信じる」とはどういうことなのか私はいまいち呑み込めずにいたが、とにかくやってみるか、と吟行に臨んだ。

天気の良い春の日であった。題材を求めてきょろきょろしていると、枝葉の陰に何やら光るものがある。蜘蛛の巣だ。春の穏やかな日差しに照らされてキラキラと輝く銀色の糸。なんとも繊細で風情のある題材じゃないか――是非ともこれを詠みたいと思って、同じグループの先生(この方も俳句の達人だ、本人はご謙遜なさるけれど)に相談してみることにした。

「あぁ、良い着眼点だけれども、『蜘蛛』や『蜘蛛の巣』は夏の季語だからねえ。」

先生は穏やかな笑顔でそう答えられた。

なんてこったい。夏の季語ってことは今使えないのか。というか、「蜘蛛の巣」って季語だったんだ。何も知らない私は二重に衝撃を受けたわけだが、その衝撃はじわじわと別の感情に変わっていった。


納得がいかない。


『蜘蛛』『蜘蛛の巣』は夏の季語として扱われる。だから、春にそれを詠もうとすると「季違い」ということになるわけだ。しかし、2019年4月吉日、うららかな春の陽光を受けた蜘蛛の巣は、目の前で確かに光っている。ようやく暖かくなってきて動けるようになった蜘蛛たちが、8本の手足で器用に糸を手繰って作り上げたばかりの巣だ。南向き、日当たり良好。いかにも暖かそうで、「良い物件ですね」なんて声を掛けたくなるような巣だった。まだ冷気を溜め込んでいる日陰とのコントラストも良い。微細にして精彩な存在感。この蜘蛛の巣は、今この瞬間がまさに「詠みごろ」ではないか――そう思ったのである。しかし、夏の季語であるばっかりに、それを「春」という文脈の句に落とし込むことができない。「いま、この場所」の蜘蛛の巣はこんなにも心を動かしてくれたのに。それがなんだか、酷く理不尽に思えてしまったのだ。

「季語」とは一体、何のためにあるのだろう。そもそも17音しか使えないのに、季語が必須というのが何とも厳しい。場合によっては全体の3分の1以上を季語で使ってしまうことだってある。季語のために貴重な数音を捧げるのは、一体どうしてなのだろう。

そんなことを悶々と考えているうちに時間は過ぎ、いまいち納得のいく句が出来ないまま吟行は幕を閉じた。


それからしばらくして5月になろうかという頃、私は河原を散歩していた。もう桜の花も散ってしまって、並木道は緑一色に染まろうとしている。

夏の季語に「風薫る」というのがある。夏というのも旧暦だから、大体これぐらいの季節からのことを指すだろう。なんとなく耳にした覚えのある季語だが、私は(風って薫るの…?)などと考えていた。季語というものに不信感(?)を抱いてしまった私は、(風流めかしてそんなこと言ってるだけなんじゃ…)などと不埒な疑いをもったわけだ。

そんな不心得者を諭すためか、河原を歩く私にゆるやかな風が吹いた。


桜餅の薫りであった。


近くに花見の一団でもいるのかと辺りを見回しても、誰もいない。風上に目をやれば、柔らかそうな新芽をつけた桜の木がある。今の匂いの元はこれだ。顔を近づけてそう確信した。


えぇ…風…風薫った……


あまりにも見事に風薫った。ちょっと引くレベルで風薫ったのである。「そういう物理的な話じゃなくて…」という声も聞こえてきそうだが、「もう桜の花は終わって、これからどんどん葉が育って、やがて実がなる」という季節の移り変わりを全身に伝えてくれるような、そんな爽やかで優しい風だったのだ。これはもう、まさしく「風薫る」を体験したと言えよう。

それで、季語というのはただルールとして決まっているのではなくて、季節を切り取って伝える力があるものだと知った。「先生の金言が!『言葉』でなく『心』で理解できた!」とジョジョ立ちで言いたくなるくらい得心がいったので、これからは自分自身のやり方で「季語を信じる」ことができそうだ。


調べてみたところ、『桜』は春、『桜の実』は夏の季語らしい。このように花と実、根などで季節が違うところも季語の面白さかもしれない(植物は季節の移ろいとともに成長するから当たり前と言えば当たり前だが)。季語を知るとその植物の色々な面に目が向くものだ。例えば「ちょろぎ」が新年の季語であることは想像に難くないが、「ちょろぎの花」は夏の季語だそうな。「花」ばかり、「根」ばかりが持て囃されるこれらの植物の「実」や「花」がスポットライトを浴びるところも、「季語」というシステムの美点だろう。



車窓のワンカップ

月日は流れて、これは今回の句会での出来事である。12月ということで、冬の句を詠んで持ち寄った。その中に、「雪」「車窓」「ワンカップ」を詠み込んだ句があった。(なんて良い景色だ…最高…)と思い、選句(良いと思った句を選ぶこと)の際に迷わず頂いた。

私自身は飲めないのだが、これは故郷の風景を思い出させる一句だ。乗客の少ない雪国の電車、ストーブで温めたワンカップを傾けているお父さんたちがいる。耳まで赤くなっているのは寒さのせいか、酔っているだけなのか。知らない人でも親戚のおじさんのような気分がして良いものだ。

画像1

これこれ…この車両だよ、ディーゼル(興奮)!私にとってはこれこそ、「雪」と「ワンカップ」が世界一似合う車両だ。


それぞれの句の得点を出した後は句評といって、「なぜその句を選んだのか」などを話す時間がある。この句を選んだ人は私の他にもいたのだが、その方の評を聴いてびっくりしたのだ。

「これは新幹線でしょうか、仕事が終わって帰る途中の。」
(…!?)

驚いた。自分が思い浮かべていた風景と全く違うではないか。かたや新幹線、かたや廃線寸前のワンマンカー。同じ句を解釈するのでも、ここまでの違いが出るものなのか。でも確かに、出張が多い人などは新幹線を想起する場合が多いのかもしれない。ワンカップから立ち上る湯気で旅先の緊張が解れて、時速数百キロで移動していることも忘れる至福のひととき…という感じかしら。

そう。この句、どっちの解釈でも良いんだよね。こんな自由な読み方ができるということも、俳句の楽しみだと思う。春の吟行で『蜘蛛の巣』についてお話した先生には、実はこの句会で再びお世話になっている。「車窓のワンカップ」の解釈の違いに驚いたというお話をしたら、先生はうんうんと頷きながら耳を傾けてくださり、「詠み手の出番は半分だけでいい。あとは受け手に委ねるばかり。」とおっしゃった。

何かを言い表したいとき、17音というのはあまりに少ない。必ず「言えなかったこと」がでてくるし、言いたいことの半分も盛り込めない。壊れる程愛しても3分の1も伝わらない。

でも、それでいい。全部言い表せなくたっていい。詠み手は必要最低限の言葉しか使えないから、残りは受け手が自分の知識や想像、思い出なんかで補って解釈するのだ。だから、10人集まれば10通り、あるいはそれ以上の解釈がたった1つの句から生まれる。もちろん詠み手には表現したい情景やイメージ(これも1通りとは限らない)があるわけだが、受け手の解釈がそれを上回ってくることもあるのだ。ということで、俳句に触れる前の私がもっていた「孤独」というイメージは見当はずれなことで、解釈する人・鑑賞する人がいて初めて、俳句は作品としての羽を広げるのだ。

でも本当にまっさらなところから「全部受け手にお任せします!」では、そもそも「作品」としていかがなものか、ということになってしまう。そこで、詠み手と受け手を橋渡しする何かが――「季語」が、活躍する。先生曰く、季語は「詠み手と受け手が共通で知っている領域」だ。知識や想像力は千差万別。しかし、季語の力を借りれば、我々は離れ離れにならずに済む。自由な解釈の幅を残しつつ、詠み手と受け手の間を繋ぐ。そんな芸当ができるのだから、やはり季語の力を信じて、大いに甘えるのが良いのだろう。

こうして振り返ってみると、私が面白さを見出したのは「句作」そのものというより「句会」らしい。たった1つの文字列が何人もの人間と出会い、そこには詠み手さえ考えもしなかったような解釈が生まれる。それが俳句の醍醐味だと知った。そして、「この句はどんな風に解釈されるだろう」「他の参加者は席題(全員共通のお題)どんなのを詠んだんだろう」と考えながらの句作は以前より楽しい。

あれから幾度か句会に出席しているが、その度に新しい発見がある。始めたきっかけは本当に偶然、というか成り行きだったのだが、今は純粋に俳句を楽しんでいる。「俳句の面白さ」に対して自分なりの考えをもてたから、そういう意味では私も俳人になれたのかもしれない。


句会と聞いて、参加する前は敷居が高いと感じていた。しかし、いざ体験してみるとただただ楽しかったりするのだ。そこにいるのは「俳句を詠む人」で、同時に「鑑賞する人」でもある。民話だってきっとそうだ。「語る人」がいて、「聴く人」がいる。その背景には『「語る人」にかつて語ってくれた人』がいるし、「採訪する人」がいる。もちろん、民話の中に登場する「語られている人」も忘れちゃいけない。小難しいことは何もない。沢山の人間がいるって、ただそれだけ。これこそ人文社会科学の魂なのかな。

自分で何言ってるか分からなくなってきたから、そろそろ筆を置けってことだと思う。句会の皆さんと美味しいお酒を飲みながら、健康で文化的な最高の土曜日の夜は更けていった。民話にしろ俳句にしろ、やっぱり「言葉」って素敵だ。「言葉」に向き合う者として色々考えて、すごく大切なことを感じ取ることができた1日だった。次の土曜日も、楽しみだ。

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