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作品の見え方が変わること、それについて思うこと

一つの作品は、文脈によって様々に受容されると、素朴にそう思う。一つの作品に、永遠普遍の価値がある、とは思えない。

こう言ってしまうことのリスクは、「故にどんな解釈もアリなのだ、自由に鑑賞しよう」という結論に安易に至ることだと思う。

だからあくまで、その時々の作品受容のあり方を大まかに規定するもの…時代精神、美術史、批評、市場価値、キュレーション、その他諸々…に依って人は作品を見るけれど、それは可塑的な基準に過ぎないし、流動的である、というのが健全な態度になるのだろう。

こう言うことのメリットは、先に挙げたような規定と、それを逸脱する体験の両方に敬意を持てること、後者が前者の硬直を解きほぐすような、相互作用の運動体をイメージできる点にある...のだろう。


その時々によって作品体験が変わってしまうことについて、思うまま書いてみる。
先日、三岸節子の桜の絵を見る機会があった(「貝殻旅行-三岸好太郎・節子展- 神戸市立小磯良平記念美術館/2021/11/20-2022/2/13)。

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《さいたさいたさくらがさいた》1998年

見たのは2回目で、1回目は一宮の三岸節子記念美術館だった。

1回目。

その時は息子の黄太郎の特別展(「没後10年 三岸黄太郎展-描く詩人- 一宮三岸節子記念美術館2019/10/12-12/1」)が中心で、そちらに深く感動したことをよく覚えている。どことなくニコラ・ド・スタールなどに近いような、要素を切り詰めた風景の構図だが、色彩の深さが違うというか、かなり長い時間見入ってまった。
その後で節子作品を見た時は、筆致の力強さを感じつつも、印象に残らなかった。黄色太郎作品の静謐な余韻を引きずっていたかった。

3年ほど愛知に住んでいたので、三岸好太郎の作品も愛知県芸や名古屋市美、あと先日のポーラ美術館(「シュルレアリスムと絵画-ダリ・エルンストと日本の「シュール」ポーラ美術館/2019/12/12-2020/4/5)などでも目にする機会がいくらかあった。
その時もエルンスト-ダリ風の地(水)平線に戦時中の暗さが影を落とした感じの、シュルレアリスムの影響を受けた絵の典型、というイメージで受容していたように思う。

2回目。

今回の小磯良平記念美術館では、三岸節子・好太郎の出会いから結婚、好太郎の急逝から節子のその後の画業までを時系列で示すものだった、
そのことですごく作品の見方が変わったというか……好太郎がルオーやマチスに傾倒しながらシュルレアリスム風のスタイルに辿り着いたこと、家族の肖像の筆数の少なさから浮気性の好太郎を想像したり、折々に残された三岸節子の言葉から好太郎への両義的な気持ちを推察されるもので……普段必要以上に作家の伝記的情報は気にしないけれど、今回はそれがあってこそ作品が興味深く見えた。絵に描いたような人生だと思う(人生が絵に描かれているというべきか)。

最晩年の二人の作品が対照的ですごく印象に残っている。
好太郎の蝶が羽ばたいていないこと。乾燥した貝殻の詩的な死。
節子の桜が禍々しいこと。夫が先立っても、子供と画業を背負ってきた生。

「生命に執着し、執念を燃やす怖さが描けなければ、本当の桜を描いたことにはなりません。今の私なら描くことができます。美しさと怖さを」
『日本の美II さくら』美術年鑑社 2001年
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この時、2回目の作品体験の方を良しとするのではなくて、作品体験が変化した事を良しとしたい、と思う。

どんな流れで、どんな作品と続けて見るか、それによって感じ方が変わってしまう。だから少なくとも気分とか言ったレベルのコンテクストからは外在的に、作品を常に正当に・安定して評価する基準は必要だと思う。ただ一方で、それはどこまでも形式理論的なフィクションなのではないかとも、素朴に思う。実際に作品を見る時にはいつもブレ・ボケ・見間違いがある。で、そこでまた、実際の自分の体験だけを至上のものとしたいのかと言えばそんな事はない...それがあくまで基準と違う、見間違いなのだという自覚もある...。

作品を見て何かある感覚を持ったとして、それを客観的基準において正当化するでもなく、一方で個人的な神話として正当化するのでもない、正当化した途端に硬直してしまう気がするから、この二つの「〜ではない」のあいだに生成変化を見出したい。

肯定的に言い換えると教科書的なものの見方と、自分の身体生理に忠実な感覚とを、上手い塩梅で行き来したい


【追記】
備忘録として…三岸好太郎が描いた節子の肖像画を、節子本人は「私より好太郎の母に似ている」と言ったらしい。解釈出来そうな話だが一旦置いておいて、節子本人の自画像を見るとなるほどもっと若々しい。そういえばこの自画像も以前見た。今見ると、右眼の色が薄いのが記憶に残る。好太郎作の肖像は、顔の右半分が少しずれて感じる。この顔の右側という符合が気にかかる。


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