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石内都展 見える見えない、写真のゆくえ(西宮市大谷記念美術館2021.4.3-2021.7.25)感想(2021.6.28)


一つの傷を巡る物語と、複数の傷を巡る物語について。

《ひろしま》シリーズ。
ラカンの男性側の式において、一つの傷=空虚なシニフィアンが析出される。それを中心に全体を組織する。
原爆-トラウマ-国威の去勢の傷。そうやって一つに集約されたその傷を巡る様々な言説。
それは言語に拠る。象徴体系に回収する事で、複数の傷は一つの傷に抽象化される。

けれど、物としての傷は複数のそれぞれで、ただそこにある。
焼けて傷んだ衣服、物としてのそれは、一つの傷にはならない。
一つ一つの穴、一つ一つの傷から、そこにあった個別の身体を想像してみること。そこにあった、個別の痛みをこそ、想像しなければいけない。


《Frida Love and Pain》シリーズ。
そこにあったと思しき身体は、むしろ生き生きとしていたように思える。生涯を生ききった一人の人間。フリーダ・カーロという画家に纏わりつく傷ついたイメージも、伝記上-言語上のものだったのかもしれないと思った。
けれど、最後(#40#41)にはまた、傷と綻びの印象が影を落としており、解釈のレイヤーを多重化された気がした。

《ひろしま》も《Frida Love and Pain》も、《連夜の街》シリーズも、「かつてそこにあった身体」を想像させる物だったが、
《INNOCENCE》、《sa・bo・ten》、《Naked Rose》シリーズでは、今度は身体の方が前面化してくる。

各シリーズの作品がシャッフルされて展示された第三展示室内。最初、
・サボテンの棘=傷つけるもの、能動
・身体の傷=傷つけられるもの、受動
のように思えるが、見ているうちにサボテン傷んだ部分が身体の腫瘍のように見えてくる。薔薇もまた、茎に棘をもちながら、枯れた花弁はしだれた皮膚とイメージが重なる。
単純な能動/受動の対立が撹乱されて、各イメージが交差する場に巻き込まれていく。複数の傷。複数に傷つけられる。

台風災害で水没した自作を撮影した《The Drowned》も傷についての作品と言える。
二次元の写真が、三次元で損傷する、それをまた二次元の写真にすること。
『明るい部屋』で写真は物理的に損傷していくものだとバルトは書いていたけれど(註1)、それ自体をメタレベルで再度、写真にすること。もう一度抗ってみること。傷を負っても、この身体を生きていくこと。


【参考】
千葉雅也『意味がない無意味』河出書房新社、2018年
松本卓也『享楽社会論 現代ラカン派の展開』人文書院、2018年

註1.
ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳、みすず書房、1985年、p.116


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