記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

【ネタバレ:3/21追記】エヴァとはなんだったのか、そして庵野秀明はなぜ病んでしまったのか

3/8の月曜日、ついにシン・エヴァンゲリオンが公開された。
待ちに待ったというよりも、ついにこの日が来た、という感覚だった。
まさか生きて迎えられると思わなかったというのが正直な気分だった。


公開当日、自分は2回見ることにしていた。
ファンだからというよりも、1回では茫然自失となってしまうかもしれないから、ちゃんと受け止めるための2段構えのつもりだったが、杞憂だった。
1回目から十分に楽しく、2回目はさらに楽しめた。
しかし喜びと同時に戸惑いを感じた。
「こんなわかりやすいエヴァが、エヴァでいいのか?」


自分は85年生まれ。エヴァTVシリーズは10歳の頃の放送だった。
TVシリーズは再放送で見たが、正直あまり覚えていない。
ただ、小学校の図工で、ネルフマークとロンギヌスの槍を彫った時計を作った記憶がある。それはまだ実家にあるはずだ。どれだけ影響を受けたのか。

TVシリーズの記憶はあまりないのだが、EOEこと「劇場版Air/まごころを、君に」は一人で劇場に見に行った。計算すると12歳のころだ。シンジの自慰シーンに興奮したとともに、その後の展開に驚愕し、真っ白な頭で劇場をあとにすると外は真夏の暑さで、クラクラするのは暑さのせいなのかエヴァのせいなのか……ただ世界がやけに鮮やかに見えたような、そんな記憶がある。
家に帰ってから、ノートに映画のストーリーと、感じたことをひたすら叩きつけた。あれはまだ実家にあるだろうか?それから映画のフィルムブックを買い、何度も何度も繰り返し読んだ。

そんな思春期の心に消えない衝撃を与えたエヴァが、ついに完結した。
公開されてから10日間、ずっと考えてきたことを残しておきたい。

1.自分はエヴァのなにが好きだったのか

旧劇場版、EOEに衝撃を受けた自分は新劇場版には否定的だった。
そんな自分だが、「Q」の評判を聞いて、「序」と「破」を見ないまま、劇場で「Q」を見た。これこそがエヴァだと思った。
これなら完結編であるシン・エヴァにも期待できると思い、「序」と「破」も履修した。

それから9年、ついにシン・エヴァが公開されることになった。コロナの影響で延期を繰り返し、どうせ公開はまた数カ月後になるだろうと悠長に構えていたところに急転直下の3月公開。
TVシリーズ・旧劇場版・新劇場版を見直すファン、庵野秀明作品やインタビューを見直すファンたちを横目で見ながら、自分は何をすべきかを考えた。
自分は、自分がエヴァの何に衝撃を受け、シン・エヴァでいったい何を見たいのかをしっかりと持って劇場に向かいたい。そう思った。

「カメラを止めるな!」の上田監督のエヴァ履修ドキュメントを見ながら(めちゃくちゃ面白いので見て!)考えた結果はこれだった。

「エヴァという作品を通じて、庵野秀明はいったい何を言いたかったのか」

TVシリーズ最終回と旧劇場版、EOEで自分が受けた衝撃とは、要するに「アニメは、フィクションは何をしてもいいんだ!」という驚きと、今後のフィクションを受け入れる際の姿勢だった。

ただおもしろいだけの作品では物足りない。
受け手の人生を変えるような、心に深い爪痕を残すような作品をみたい

こんなクソ厄介な原体験を残してくれたのがエヴァだ。
(冷静に振り返ると本当に厄介な呪いだこれ)

わかりやすい答えもない、それどころか受け手を不快にさせる、そんなものがエンタメとして作られ、同時にとてつもない数の人間を夢中にさせた、それが自分にとってのエヴァ最大の謎であり、魅力だった。
いったい庵野秀明は何を考えてこんなことをしたのか?何を言いたかったのか?
シン・エヴァではそれが明らかになったか?

明らかになった。これ以上なく明確に……自分はそう思っている。
完全な妄想であり、勝手な思い込みだろうが、自分が感じたものがエヴァなのだ。これが私のエヴァンゲリオンイマジナリー。
だから批判を受けるのは覚悟の上で書いていく。

2.エヴァで庵野秀明は何が言いたかったのか?

「はじめて心から愛した人と結ばれずに人は幸せになれるのか」
これがエヴァのテーマだったのだと思う。
こう考えるに至った理由をこまごまと述べなくとも、エヴァのファンで、シン・エヴァを見た人なら大体わかってくれるだろう。


死別した最愛の人ユイを追い求めるゲンドウ。
EOEのラスト、アスカの首を締め、「気持ち悪い」と拒絶されるシンジ。

まことしやかに語られている、当時庵野監督は宮村優子さんに懸想していたということの真偽は知らないが、そういう俗な読み方をせずとも、愛した人、運命の人と思った人と死に別れてしまった、相手にとってはそうではなかったということの比喩だと今の自分は解釈している。

私は今結婚しているが、相手は初恋の人ではない。普通のことだ。
それでも自分が運命の人と思った相手とは結ばれなかったという事実はある。
人生とはそういうもの、わかってはいても心のなかにその棘はずっと残り続けている。TVシリーズと旧劇場版は、要するにそういうテーマだったとシン・エヴァをみた後の自分は考えている。

3.なぜ新劇場版を作ったのか

「はじめて心から愛した人と結ばれずに人は幸せになれるのか」という問いに対して、EOEでは「なれない(しかし、それでも人はその痛みを引き受けて生きていかねばならない)」とした答えに、違う答えを出せると思ったのだろう。
なぜか。
それはもちろん、安野モヨコさんとの2002年の結婚によるものだろう。


はじめて心から愛した人とは違う人とだけれど、自分は幸せになれた。
「破」で空の上(いま考えれば、物語の外側ということか)から現れた真希波マリが、最終的にシンジを救い出し、幸せになる、という流れは早いうちから想定されていたのだと思う。


しかしここで疑問が湧く。「序」の公開は2007年、「破」の公開は2009年、「Q」の公開は2012年。
コンスタントだった公開から、「シン・エヴァ」まで9年の開きがある。
そしてシン・エヴァを見た人ならわかるはずだが、もちろん素晴らしい作品であり、美しい映像と、様々な挑戦的取り組みは感じられるが、あれが9年も待たせるほどのものだったのか?という感想を抱く層がある程度いることは、ネットの感想を漁っていると感じられるし、理解できる。

もちろん、我々は2011年の東日本大震災や、ガイナックス問題などとともに、庵野監督が鬱を発症したことを知っているから、それらによるものと考えるのが普通だろう……。
しかし私はこういう要因によるものではないだろうかと考えている。

4.なぜ庵野秀明は病んでしまったのか

「はじめて心から愛した人と結ばれずに人は幸せになれるのか」という問いに、プライベートではYESという答えを出し、シンジやアスカ、レイを幸せにする新劇場版を制作しているときに庵野監督ははたと気づいてしまったのではないだろうか。

「自分がオタクとして心から愛しているのは、アニメではなく特撮ではないのか」

プライベートで出した答えに、仕事でもYESと答えるのなら、特撮への想いは捨てて、アニメにすべてを捧げるべきだろう。
……しかし、庵野監督はそうすることができなかった。

もちろん震災や旧友、両親との関係もあるだろう。自分も鬱を患ったが、ただ一つの理由によるものとは言えない。様々な原因が絡み合っていたと考えるのが当然である。
それでもこの自己矛盾によるものは大きかったのではないか。
自己矛盾の果ての苦悩によって、アニメーションに向き合うことが出来なくなった……。
その問いに対して真正面向き合って出した答えが、「シン・エヴァ」公開を待ち望んでいたファンが驚愕した2016年の「シン・ゴジラ」監督であり、2021年公開予定の「シン・ウルトラマン」脚本と製作なのだろう。

庵野秀明は、アニメも特撮もやる、オタクとしては二股をかけることを決意したのだ
(ただ、もしかするとアニメからは離れることを選択したのかもしれないとも思っている……
ラストのシンジとマリが現実の宇部新川駅から飛び出すシーン、この見方でシンジを庵野監督とみなせば「庵野秀明はアニメを離れて実写の世界に行く」とも読み取れるわけで……
これについて3/22放送のNHKプロフェッショナルで語られることを期待している)

5.アニメは実写の代替物なのか

 当時、若かった僕担当のプロデューサー新江幸生氏は、面白がって書かせてくれたし、各話の監督も満足していたようだった。
 だが、その分、他のベテラン脚本家の脚本が、登場人物がレギュラーだけだとか、地味な人情劇が多くなっていったのに、僕は気がつかなかった。
 無事に番組が終わり、打ち上げのパーティが始まった。
 宴もたけなわになった時……酔った一団が脚本家のグループが飲んでいるところにやってきた。
 「首藤剛志って脚本家はどいつだ」というのである。
 「僕ですが……」と答えると、一団のグループが言った。
 「いったい、雨降らせるのに、雪降らせるのに、どれだけ苦労がかかると思っているんだ」
 その人達は、美術や効果の人たちだった。
 「そりゃ、監督さんがやれと言えば、やるけどよう……現場の身にもなってくれ」
 からむというより、泣きが入っていた。
 つまり、僕の脚本は、1週間30分の青春物にしては、お金と美術や撮影効果の苦労がかかりすぎだというのだ。
 事実、レギュラーにない登場人物も大勢出ている。ロケ現場もやたらと数が多い。現場の苦労は大変だったろう。予算だって、馬鹿にはならなかったはずだ。
 要するに、若手の少し面白い脚本を書くシナリオライターが好きにかけるように、周りが我慢してくれていたのだ。
 しわ寄せを食ったのが、ベテランの脚本家の方達で、予算のかからないレギュラー中心の地味な作品を書く事になった。
 僕は考え込んでしまった。
 僕が書こうとしたのは、それほど、スタッフの苦労を強要するほど、素晴らしい脚本だったのか……? 僕は、ただ、書きたいものを書いただけに過ぎなかった。
 それに、多大な予算やスタッフの労力を使うのは忍びないというより嫌だった。
 僕が、実写よりアニメに向いていると思ったのは、単純である。
 アニメなら、実写で難しい事が表現できる。ただそれだけである。

昔読んでずっと心に残っていた、ポケモンの『ミュウツーの逆襲』の脚本などで知られる故・首藤剛志さんのコラムを引用した。
アニメは実写の代替物なのか、自分にはなんとも言えない。
しかし首藤さんのように、現実では出来ないことをやりたいからアニメに来たという人材はたくさんいたのだろうし、実写への嫉妬を富野由悠季監督なんかはまったく隠していない。
しかしそんな才能たちがアニメではなくCGで自分のやりたいことが表現できると感じたとき、現代ではアニメという表現方法は作品に応じてクリエイターが選ぶ、あくまで選択肢一つでしかないのかもしれない。

6.彼らはなぜシン・エヴァを批判するのか

上記からの類推として、シン・エヴァ否定派があれほどの怒りや憎しみを発揮しているのは、以下のような理由があるのではないかと思っている。

①処女厨・童貞厨
②ワナビ・夢追い人・求道者
③アニメオタクにさせられた恨み

それぞれ説明すると、

①処女厨・童貞厨→
はじめて心から愛した人と結ばれるべき、それ以外は認めない!というのはアスカ派、レイ派に多く見られ、さらに自分の人生においてもはじめての恋人同士で結ばれることを夢見ていると思われる。また既婚者などにも、現在のパートナーで本当に良かったのか?という思いがあるのかもしれない。
(自分は子どもを持ち、人生に後悔はあれどもう時間を戻す必要はないな、と思っている。自分の想いも大事だが、こんな面白生物が存在しない世界に戻すのは嫌だな、と諦観し受け入れている感じ)

②ワナビ・夢追い人・求道者→
アニメーション作家として類い稀な才能と実力を有していながら、そこから離れようとする庵野秀明に対して、嫉妬する者、栄光を求めながら掴めない者、自分は必死で頑張っているのに報われないと考えている者たちがここにあてはまると思われる。

③アニメオタクの恨み→
「現実に帰れ!」と言われてるように感じてる人はここかな
散々魅力的なアニメを作っておきながら、さよならと……自分をこんな体にした責任を取れ!みたいな?

7.終わりに

思い込みだろうが、25年来の疑問が溶けた。
自分の中で、エヴァは完全に完結した。

シン・エヴァは、歴史に残るようなマスターピースではないかもしれないが、個人的なマイベストムービーの一つになった。
とりあえず劇場で3回見て、随分消化することができた。
あとは円盤を待って、できればTVで放映してみんなで実況しながら盛り上がりたい。

庵野監督はエヴァにはおそらくもう関わらないだろうが、せっかくだしどんどんスピンオフしてほしい。
「異世界悪役令嬢転生冬月コウゾウ」とかどうだろうか?見たくない?

ありがとう、エヴァンゲリオン!

そしてこれからもよろしく、エヴァンゲリオン!

追伸 
庵野監督、私はアニメにはこだわりません。
あなたのおもしろい作品が見れればそれで幸福です。
シン・ゴジラは劇場で涙を流して、上映後は拍手してしまいました。
こんなにおもしろいゴジラ映画の新作が日本で見られると思わなかったから。
シン・ウルトラマン、楽しみに待っています!



ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?