ノンセクト・パラノイア

セクトと熱狂は苦手

僕が赤松健氏を嫌い始めたのは、彼が山田太郎氏を持ち上げセクト性を煽り始めた頃からだった。
恐らく赤松氏は団結を計算してセクト性を押し出したのだろうが、僕はそのセクト性と熱狂を嫌った。
それ以降も、僕は商業表現者だった割に「表現の自由」セクトの熱狂とアジと半端な戦闘性を嫌い続けた。
(寧ろ半端な戦闘性や凶暴性を見せるからこそ「じゃあ殺しで解決しろよ!」と常々思っていた。その直後に例の銃撃事件が起きて考えを改めたが)

「表現の自由やポリティカルな話題に触れていながらオタクはノンポリなど言うのはおかしい」と言うフォロワー氏(ガチガチにポリティカルな人)の言葉に、「じゃあ僕はノンポリでなく、セクト嫌いのノンセクトと名乗れば良いのか」と考え、Twitterでは「ノンセクト見習い」なんて名乗り始めた。
(因みに見習いは多分永遠に取れそうにない)

理想以外は消し去りたい

そして僕は何もかも理想に届かない事全てが嫌過ぎて、それなら全て記号ごと根元から消し去れば理想が叶うと言うパラノイアみたいな、或いはナチスじみたニセ合理的理想主義を常に抱いている。

「僕のような何も得られない欠陥人間の自殺は歓迎されるべきだ。税金の無駄も配慮の無駄も減るし、家計の負担も減る」みたいな言動を自分だけでなく社会全てに飛ばしたりしてる。
理想や予定を叶えられない僕自身が嫌い過ぎて、自分で自分とその記号に差別言動を飛ばしている(「発達障害のお手頃な就職先なんて塀の中か三途の川の向こうくらい」とか)。
予定が狂い理想に届かない時や金の遣り繰りに焦燥を抱いている時(その癖に無駄遣いはしまくる)は 、全てに敵意を抱いて過去と未来を呪って、食事と睡眠の要らなくなる薬をねだり、無駄遣いーー要は本やゲームを無駄遣いのまま腐らせてる自分を時間の使い方を間違えてる欠陥人間と罵って欠陥を直す方法(電撃スイッチとかタコ部屋式丸太枕とか)を考えながらぼーっとtwitterを眺めている。

理想が叶うなら破壊も絶滅も受け入れる。
自分の理想や目標が叶わなければ自殺あるのみだ。

理性的とかたまに言われるが、僕の本質は名画にスープ缶ぶっかけて環境問題を考えさせる奴や、人類の90%を殺せば理想の社会がやって来るとのたまうのと大差ない考えで満ちている。
ただその方向性が九割自分に向いているからそう見えるだけだ。

どんなささやかな理想や目標でも叶わなければそいつに価値は無い。
特に理想や目標がささやかな程、そんな事すら叶えられないなら本当に無価値と言っていい。 
僕の理想や目標への態度は、だいたいこんな感じだ。

理想を追いすぎだと自分でも思ってはいるし、理想と割り切って現状を見るのが一番なのは知っている。
それでも僕は理想を捨てきれないし、スイッチが入れば理想以外は全て壊したいモードに突入する。

理想は遠く、現実は惨めで

数週間前にホリゾンタル式のスケジュール帳を買って、毎週執筆進捗を週初めに決めるようにした。
それでも僕のスケジュールは時間通りに進まないし、その中で珍しく書けた執筆内容もつまらない文章の羅列に見えて仕方がない。
特に最近の進捗は11月末締切の賞を放棄した上ですら、他の賞向けの作品にも差し障る程度には最悪の一言に尽きる。
(メイン執筆時間をコンサータ切れ直後の夜間に移したのも多分原因だろうが)

頑張れない病やスケジュールの余裕の無さは僕を蝕んで止まない。
畜生だのなんだの心の中で叫びながら僕はややこしい本を読んだり、こんなネガティブなnoteを怒りのまま書いたり、果たして面白いのかもわからない原稿を三歩進んで二歩下がるような調子で書いている。 

そして講談社に送った原稿に、修正してない箇所や書きかけの文章を見つけて今頭を抱えているのだった。

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