「デイブレイク・チェイサー」2話
エリフ=キリスクにとって『夜明けを追う者たち』は自分にとっての天職であり、これ以上にない上等な仕事だと思っている。
「許しを請うて夜明けを追う赤ん坊殺し」。そう戦闘機部隊のエリート様やハイダキアの捕虜たちに陰口をたたかれ、町の連中に白い目で見られても、そんなことはとうの昔に慣れてしまって、もう何の感慨も疚しさも無い。
それどころかいつ何かの気まぐれで死ぬかわからないガキが、いつ何の気まぐれで死ぬかわからない仕事をするだけで士官様の称号を得て、遊び歩けるような給料と上等な食事と酒を得られたのだ。
本当にニコラエ=ノッホ空軍元帥様々だ。
ダギンツ基地の格納庫でエリフは『バンシー・エリー』号の整備の様子を見ていた。三日前の空襲の時にハイダキアの戦闘機――『ラッパンチュ』なんて言われている液冷の単発機――のイスパノ機銃で開けられた穴や尾部の高角砲弾の破片が食い込んだ箇所は整備兵の頑張りのおかげですっかり直って、いつでも飛行可能だ。
航空機関士のフィナが甲斐甲斐しいことに倒立V型液冷エンジンの様子を見ながら調整を手伝っていて、エリフは彼女を見てくすりと笑ってしまう。フィナはそれを肯定的に捉えたのか、微笑んで返してくる。
フィナは純朴で優しくて慕われるが、だからこそ真っ先に損をするタイプだ。だから農村から町に出て、募兵に騙されて『夜明けを追う者たち』なんて因果な場所に来てしまったんだ。
整備兵に嫌な顔をされながらエリフは格納庫を出て行く。
基地の急ごしらえの木造の食堂に行けば、他の爆撃大隊の面々に交じって、合板のテーブルを陣取って銃手のフローと無線士のサラがだらりと身を投げ出してお互いにゴリ押すような下手くそなチェスを差している。
その脇では肩身が狭そうに航法士兼副操縦士で、エリフを除けば唯一の士官のイオンが辛気くさい顔を浮かべながら、一丁前に身体だけは女らしくなった二人のクソガキにちょっかいをかけられながら、立派な装丁の本に目を通していた。
エリフは周囲の自分を嫌悪する視線をどこ吹く風と茶を淹れてもらうと、イオンに向かい合う席に座って茶を啜る。
イオンに何を読んでいるのかと聞くと、哲学書だと言う。ベルガニアのキンザーとか言う思想家が書いた本で、善と正義を問い、倫理観を定義するという内容なのだそうだ。
イオンは自分の今やっている敵首都爆撃が誰のための善で、誰のための正義なのかと自問自答するように口にする。
エリフはそれに露骨に舌を打って「私たちのための善で、国のための正義だよ」と返した。
「辛うじて文字が読めるくらいで十五になってもスリするか薬売るかしか出来ない、誰にも疎まれる、気まぐれでいつ死ぬかもわからない裏町のクズみたいなメスガキが飛行学校に進む切符を得られて、爆弾落としてくるだけで美味い飯と身体を売るよりずっと良い給料を貰えてる。それが善で、正義だ」
エリフがイオンに向かって口にしたのは、首都ギルカの低層建築の並ぶスラム街。幸せだった幼年時代から一転、先王時代の政府と内閣の経済失政が生み出した孤児まがいの貧民窟の子供だった少女時代。
読み捨てられた大衆雑誌や無料配布の聖書で読み書きを覚え、十歳で近所の爺さんからスリや盗みの方法を教えて貰い、十三歳でチンケな組織の下請けで薬を売って、得た金をすっかりアル中になった父と虚飾症の母に巻き上げられない方法をあれこれ実行しては酷く殴られ、盗みや薬でヘマをやらかしたときには警官や薬売りの元締めからも殴られた。周りではヘマをして殺されたり、自殺した子供も何人か居た。
そのろくでもない暮らしに光が差したのが、政権を取ったニコラエ=ノッホが空中艦隊を口にして、パイロットを大々的に集めた十五の時。両親から逃げ切るように飛行学校の志願書と試験を受け、飛行士の道に進んで爆撃機に乗ることで士官の称号を得、夢見るよりも素晴らしい生活を得たのだ。
あの暮らしに比べれば爆弾落としは、気まぐれな死が側にあるだけだ。
もし誤爆で死んだキンゼルデックの人々が居ても気まぐれな死に巻き込まれてるだけなのだから、きっとあの頃の自分と大差無い。とエリフは言い切る。
「何もなく幸せに暮らしていた人たちはどうなるんですか」とイオンが問うと、エリフは茶に口をつけながら乾いた口調で返す。
「お前の信じる正義や善をゴリ押せないくらいに世界は不公平なんだよ。だからある日突然幸せを奪い取られるのもありふれたことだ。たとえ奪い取るのが私たちが落とした爆弾だとしても、逆に私たちが20mm機銃で奪い取られたとしても、全部気まぐれな必然なんだ」
フローとサラもエリフの言葉を肯定した。サラは港町オジムスクの娼館街で生まれた父なし子、フローも経済失政で父親が首を吊ったあとろくでもない母親や継父に痛めつけられたクチで、どちらも空中艦隊を口にしたノッホの空軍拡張と戦争で生きる居場所を得たのだから。
ついでにサラが、イオンの前の副操縦士だったエレナもそんな奴だった。彼女は高射砲の弾片とガラスが全身に刺さって死んでしまったが。と付け加える。
イオンは顔を伏せ、ぱたりと本を閉じてコーヒーカップを見つめる。
士官待遇で徴兵された温室育ちの大学生上がりのイオンに、エリフの口から語られた言葉は否定することが出来なかった。
中産階級に生まれ、都市爆撃に良心の疚しさを抱く程度には「きっと正しい倫理観」に身を委ねているイオンにとって、エリフの口にする善はあまりにも醜悪で身勝手だったが、しかしその善を否定できるだけの重みが自分の言葉にないのを悟るのだ。
項垂れたイオンにエリフは「いずれあんたもそんなこと考えないで済むようになる」と声をかけるが、その時、出撃命令が下った。
今夜の爆撃目標は首都ではなくハル川沿いの工業都市・インレルツ市の鉄道車両工場。機関車や戦車の製造拠点である工場群を夜間爆撃する。
パスファインダーの双発戦闘機を先頭にした編隊に組み込まれ、250㎏爆弾8発を搭載した『バンシー・エリー』は飛翔し、ベズニティ山脈を超えて編隊飛行のまま爆撃コースに入る。
イオンは終始目を伏せたままで辛気臭い声で答えて、それにフィナが気づいて、何かあったのかと聞くが、サラとフローはイオンが真面目過ぎるんだと笑って答える。
インレルツは工場の周囲に社宅の広がるような街で、目標の鉄道工場もまた周囲に社宅や学校がある場所だった。
目標の鉄道工場に近づくとサーチライトと対空砲火の中を編隊は飛び、パスファインダーの急降下爆撃を目印に『バンシー・エリー』も編隊の他の機とともに爆弾を投下する。
しかし投下した瞬間、「あっ」とフィナは口にする。
フィナの想定以上に風向がありすぎたのだ。8発の250㎏爆弾は目標を大きく逸れ、3発だけが車両工場の建屋に直撃し、あとは建物から伸びた引き込み線、そして社宅街の真ん中で花開く。
フィナの顔色が真っ青になってゆく。イオンもまた絶句する。
しかしエリフは編隊を維持したまま送り狼の戦闘機をやり過ごすために、サラとフロー、そしてフィナに機銃防御を頼む。
フィナは青い顔で涙を浮かべながらそれに従って、戦闘機に13㎜機銃を向けて、撃つ。
インレルツの防空隊はキンゼルデックに配備されている『ラッパンチュ』より旧式のアルフィニア製の『ハリケーン』戦闘機で、前の編隊の何機かが不幸にも食われたが、『バンシー・エリー』は今度は無傷で逃げ帰った。
ダギンツ基地に帰投した後、イオンは朝日の差し込む格納庫でうずくまるフィナに言葉をかける。爆撃ボタンを押すには優しすぎる純朴な少女は、イオンの顔を見るとしがみついて慟哭する。イオンはフィナとこの奪い奪われるだけの場所で、二人で寄り添いあいたい――それが歪な依存だとわかっていても――と思った。
そうしないときっと二人はエリフが受け入れてしまった、何もかもを奪い取る『泣き女(バンシー)』に壊されてしまうのだから。
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