コロナ禍の下で、少し考えを変えた話
人は何をするかだけが重要なのではない。それをする人はどういう人なのかというのも実際に重要なのである。人が一生をかけて完成させ、磨き上げるべき作品の中で一番重要な作品は、その人の、人間そのものである。 ジョン・ステュアート・ミル「自由論」
はじめに
古今東西の実例を見るに、優れた芸術品を遺したが、作者はとても似つかわしくないほど人格や社交性や行動で問題のある人だったという話は少なくない。我が国ならば太宰治や芥川龍之介あたりが著名だろうか。
私自身、サブカルチャー好きな人間の一人として、あるいは近代の人権を尊重する人間の一人として、「作者が問題のある人であっても(例えば、既存の法で犯罪とされる行為をした人であったとしても)、それは作品の評価とは切り離されているべきである」「たとえば、テレビドラマの俳優の一人が違法行為の疑いで逮捕されたから、または有罪判決を受けたからと言って、そのドラマが二度と日の目を見なくなることは不当である」と思っていた。例え中核的な役割や奇才を持っていたとしても、発表の場を含めて、たった一人の人間の力で成り立つ芸術はそうそう無いものであり、多くの人間の労力や利益や権利が伴っている。だから、一人の関係者の落ち度で全体に損害を被らせる方法を取るのは不適切という経済的な視点もあった。
その考えが、この2020年の前半を覆うコロナ禍の下で少し変わったので、なぜそのように変わったのかを含めて、書き残しておきたいと思う。
コロナ禍の下で世界は結束するかという問題
私自身は医学の素養が無い身なので、COVID-19に対する政府レベルから民間レベルの取り組みを、メディアで情報収集することはあっても医学的にああだこうだと評論することは避けたいと思う。このような状況では私的なコメントさえも有害な情報となりえるし、私自身、そのように感じる他者の評論を見てきたから。
わたしは君の意見に反対だ。大国の指導者たちとなると、一致団結することからしてまず難しい。またたとえそれを実現できたとしても、団結を維持し続けるのが、これまたひどく難しい。 ニコロ・マキアヴェッリ
2019年~2020年の年越しのカルロス・ゴーンの逃亡劇、そしてイギリスのEU離脱が今では遠い過去のように思える。今では団結を謳っていたEU国内で労働者の移動もままならず、医薬品・医療機器の囲い込みが行われている。経済のグローバリゼーションも未知なるウイルスの前に寸断された。映画で描かれるような「人類の危機」は起こったが、映画で描かれるような「人類の団結」は起こらなかった。改めて、「インディペンデンス・デイ」や「シン・ゴジラ」や「デスストランディング」は特上のフィクションだった。
目を閉じて空想に逃げれば、このような危機の下で世界的な団結は難しくても、せめて同じ国の中では同胞は団結・連帯して立ち向かおうとするだろう。しかしひとつの国の中でさえ「人類の団結」は起こらなかった。
変わらないことが罪になる場合
コロナ禍の下で、私は「コロナウイルスが直接引き起こしたわけではないが、連鎖して発生した社会的な問題」に注目していた(4月現在のテレビや新聞を賑わせているのはこの手の問題である)。私は先月まで学習塾業界に身を置いていたので、2月下旬からの休校要請には一当事者として対応していた。保護者は好意的で理解ある方々だったためトラブルは少なかったが、休講の案内、映像授業の案内と視聴可能だったかの確認、プリント類の郵送、説明会などイベントの中止の案内などなど、とかく電話で連絡することは多かった。ご家庭で大変なことも多かっただろうに、感謝に堪えない。
そんな中、全世界的に見ても、普段はやれ国民の自由だ民主主義だという国においてさえ、トップに強い指導力を期待する圧力が強まった。日本も例外ではない。年内に選挙を抱える民主主義国が初動に遅れ、発生源となった中国が今やマスクや医療物資の輸出国となっている。ここでは各国の政治体制や指導者の良し悪しを議論したいのではないし、我が身に危険が迫るや意見を転換した人々を批判したいのでもない。むしろ、このような時にさえ普段の行動を変えない(変えられないのではなく、変えようとしない)人々の方が危険だと強調したい。
危険な人々
COVID19がまだ「中国の武漢市で流行っているらしい新種の病気(そもそも武漢市ってどこだ?)」に過ぎなかったころから今まで、無名の庶民から各界の著名人まで、ウイルスの呼び方に始まって、人種差別、マスク着用の理解度、周囲の人の生活への配慮の度合い(主に仕事と家族について)、感情の優先度、科学リテラシーetc...「こいつと一緒にいるといざという時に頼りになるか、それとも危険か」を観察する機会は十分にあったと思う。ネットで情報収集ができる人ならば、職場の責任者の無理解に愕然とした体験談を見聞きする機会もあったのではないだろうか。
中でも筆者が危険だと指摘したいのは、このような時にまだ政局やイデオロギーを優先するような、自分のポジションに固執する人々だ。私と同じ程度には医学を知らないであろう素人が、テレビや新聞でやれ国の金の使い方がどうとか他の問題の隠れ蓑に使っているなど、ますます貴重なメディアのリソースを食いつぶしている。非常に残念なことだが、東日本大震災の頃からあまり面子は変わっていない。断っておきたいが、彼らの私的な思想信条など私にはどうでもいいし、そのような意見を発表する場を奪えとも言わない。だが時と場合を弁えることは大人として基本的なことであり、卑しくも自分の名前で生計を立てる人間ならばなおさらだ。口を閉じている方が社会に対する貢献になるような人の成果物など、私は身近に置きたいと思わないし、自分がそれを好むと言うことすら憚られる。
「作者が問題のある人であっても(例えば、既存の法で犯罪とされる行為をした人であったとしても)、それは作品の評価とは切り離されているべきである」と私は思っていた。もちろん、人は誰でも過ちを犯すし、一時の気の迷いや小さな過ちをいちいち取りざたすつもりはないが、時と場合の分別を求めることは私権の制限などと大げさな話ではないし、ものには限度がある。まだ彼らは歴史上の存在ではない。
溝
最後に、なぜ私がこのようなことに思いを馳せるのかを説明して結びとしたい。関心を寄せるようになった直接のきっかけは、2011年の東日本大震災だった。以来、あることを念頭に、福島県や東北地方、ひいては日本に向けられた風評被害や、汚染をことさらに強調する内外のメディア、福島からの避難者が被った偏見やいじめを見ていた。続く災害の数々も。
これは将来、私の故郷で起こることなのだと。
次に災害が起こるのが自分の故郷だったら、この人々はどう反応する?
次に疫病が流行るのが自分の故郷だったら、この人々はどう反応する?
答えは今、目の前にあるじゃないか。
人を迫害したがる連中は、使えそうな話なら何でも悪用する。連中は迫害を正当化するために、商人たちが神殿から追放された話や、ひとりの男にとりついていた大勢の悪魔が二千頭の汚れた動物の体の中に追い払われた話をも使おうとする。 ヴォルテール「寛容論」