Art|パブロ・ピカソ《アヴィニヨンの娘たち》
現代美術の端緒となる作品として広く知られているパブロ・ピカソの代表作《アヴィニヨンの娘たち》は、いったいなぜそこまで評価されているのでしょうか?
「絵画は破壊の集積である」と語ったピカソは、《アヴィニヨンの娘たち》のなかで、伝統的な美と、絵画に流れる時間を破壊したと思っています。
パブロ・ピカソ《アヴィニヨンの娘たち》
1907年 ニューヨーク近代美術館
西洋的な美を破壊した
西洋絵画の美とは、理想的な世界を写し取ることでした。とくに、写実的であることが求められ、人体表現は解剖学と結びつき、肉の内側にある骨や関節まで理解して描くことが求められました。
とくに描かれる人体は、実物そのものでなくてはならない。
ピカソは、バルセロナにあるアヴィニヨンという街にある売春宿の娼婦たちをモデルにしたとされていますが、写実性からくる官能性はまったくこの絵には宿っていません。
ピーテル・パウル・ルーベンス《ニンフとサテュロス》
1615年頃 プラド美術館
ルーベンスの裸体画が好きかどうかは別として、こういった目の前にリアルな世界があるような写実的な表現が求めらました。
近代絵画以降、マネの《オランピア》などで、神話の世界でなければ裸を描いてはいけないという裸体画の決まりごとに踏み込みましたが、ピカソはさらに「現実世界の再現」をやみくもに求める姿勢に疑問が呈されましたが、いよいよピカソが決定打を打ったといえます、裸体画の美そのものにも踏み込んでいったわけです。
たとえば、男性と女性の間で、裸婦画に対する見方はかなり差が出てしまいます。単純にいえば、男性は性的な視線を排除して作品を見ることはかなりむずかしいと思います。
しかし、ピカソの《アヴィニヨンの娘たち》は、性差を超えた美の本質をあぶりだそうとしたともいえるのではないでしょうか。
絵画がもつ時間の概念を破壊した
《アヴィニヨンの娘たち》は、のちにピカソが提唱する「キュビスム」の兆しを宿す作品とされています。
「立体主義」と翻訳されるキュビスムは、人間があらかじめ持つ空間認識能力を排除して、面で対象物をとらえて、できるかぎり目で見えたままの情報処理を絵画のなかで表現しようとする取り組みです。
たとえば、コップなどの物体は、光の反射によって立体物であることを認識して頭のなかで奥行きを補正するわけですが、本来、形としては面で見えているはずです。
その面を、1㎜ずらしてみたり、横から見たり、上からみたり、そういった視点の変化によって対象物を立体的に認識しています。
ピカソはその連続した人間の視点を分解・再構築して、視点の連続性を絵画のなかに持ち込みました。
ポール・ゴーガン
《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》
1897〜98年 ボストン美術館
これまでも絵の中に物語の時間経過を描くことはありました(異時同図法といいます)。ゴーガンの作品では、右から左に人間が次第に老いていっています。
クロード・モネ《積み藁(雪の効果)》
1891年 ボストン美術館
印象派の画家たちも、「移ろう光」を描こうとしました。モネの「積み藁」シリーズも、情景の光の変化をできるだけ逃さないようにしています。しかし、それはあくまで情景の時間変化の表現です(時間を連作で捉えるという点では、これまでの一作完結主義の破壊という点で、前衛的ではあるのですが)。
ただし、ゴーガンもモネもあくまで物語の時間の経過であり、対象物に対する観察視線の時間の経過ではありませんでした。
こうした「キョロキョロと動く人間の目」を絵画に表現しようとしたのは、セザンヌが最初といわれています。
ポール・セザンヌ《テーブルの上の果物と水差し》
1890~94年 ボストン美術館
たとえば、《テーブルの上の果物と水差し》は、果物はやや斜め、水差しは真横、テーブルはやや俯瞰という感じで3つの視点が1枚の絵のなかに構成されています。実際に写真を撮ったらこのように映らないものですが、セザンヌは人間の目から空間を認識する能力を絵の中で表現しているわけです。
《アヴィニヨンの娘たち》の右下の女性は、背中を向けているのに顔は正面を向いているように見えます。しかし鼻は横を向いているし、目も左右のバランスがバラバラです。これは僕の憶測ですが、女性が見返り美人のように振り返っている一連の動作を画面に表現しているのではないかと思っています。シャッタースピードがおいつかずに残像が残ってしまった写真のように。
ピカソは、それまで物語や場面を写実的にとらえながらもそこに流れる時間まで写し込もうと努力してきた先人の画家たちの行為を破壊し、時間そのものを絵の中に描こうとした。そんなことがといえるのではないかと、僕は思っています。
意識的な破壊が創造を生んでいる
ここまで読んでいただいて、多くの方が気づいていると思うのですが、ピカソは決してやみくもに「破壊」を繰り返してきたわけではありません。ピカソが標的にしてきたのは、あくまで「伝統的な表現方法」で、芸術が描こうとする本質の再定義だったんじゃないかと思います。
たとえば、西洋的な美の破壊は、絵画が表現しようとした「美」そのものというよりは、それを表現する手段、ここでいえば「現実の世界を写し取ることが美なのか?」という美への疑問です。
時間の概念の破壊では、写真や映像が誕生していく近現代のなかで、絵画という平面芸術が表現するものは、前時代と同じままでいいのか? という「絵画」への疑問だったのではないでしょうか。
ピカソが、100年前に生まれたとして、同じようなキュビスム的な表現をしたかどうかはわかりませんが、確実に「従来の美への疑問」はかわらずに提唱し続けたのではないかと思います。
つまり手法はあくまで手段であり、大切なのは、過去への疑問、思い込み、刷り込みをどこまで排除して「表現の本質に迫っていくか」ということなのだと思います。
手段(様式)は、ブームを作ることはできますが、本質的への追求を前に進めることはできないと僕は思っています。あくまで手段は、イズム(主義、思想)があったうえでのもの。
ピカソがモダンアートの端緒と呼ばれるのは、あるいみで時代が後押ししたということもありますが、やっぱりイズムから生まれた手段であることが、前の時代を大きく変えられたのではないかと思っています。
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僕自身、つねに何かを考えたり、話題のニュースや、人がやっている取り組みや事業などを見るときに、ピカソの《アヴィニヨンの娘たち》のことを思い出しています。そうすることで、そのことが「手段ではなく本質をとているのか」に関心を向かせることができるからです。
近代絵画からモダンアートに、いつ変わったのかというのは難しいところですが、その変化のきっかけは、やっぱり《アヴィニヨンの娘たち》だと思うからです。
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明日のテーマは「Food」です。「食体験とは何か」について書いてみたいと思います。
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