見出し画像

Art|エドガー・ドガ《バレエの踊り子》

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展の出品作の中から毎週1枚を取り上げて紹介していく、火曜の「Art」。今回で16回目(16枚目)になります。

昨年末から『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展 完全ガイドブック』(朝日新聞出版、1540円)を編集・制作していたこともあって、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展を応援しようと始まった企画です。

今回取り上げるのは、エドガー・ドガ《バレエの踊り子》です。

印象派であって印象派の異端児(嫌われ者)

画像1

エドガー・ドガ《バレエの踊子
1890-1900年頃 ロンドン・ナショナル・ギャラリー

今回紹介する画家、エドガー・ドガは、印象派の画家として広く知られていますが、印象派と呼ばれるメンバーのなかでは、さまざまな点で異端と呼ぶことができます。

たとえば、年齢。1834年生まれのドガは、印象派の中心画家であるモネ(1840年生まれ)やルノワール(1841年生まれ)よりも、小学校の低学年と高学年の差ぐらいあります。世代でいえば、印象派の父と呼ばれるマネ(1863年)の方が近い生まれです。

家柄も違います。印象派の多くの画家たちが労働者層だったのに対して、ドガは銀行家の息子。ここでもマネが法務官僚の息子だったことを考えると、お金持ちが芸術の道に入ったといえると思います。

さらに、モネやルノワールが絵画を私塾で学んだのに対して、ドガは国立美術学校(エコール・デ・ボザール)で学び、伝統的な絵画の基礎を学んだ画家でもあります。現に、新古典主義の巨匠アングルに傾倒し「優れた画家になるためには、たくさん線を引くことだ」の言葉を信じ、デッサンにこだわったといいます。

このように経歴で考えれば、伝統的な絵画を残しそうなドガですが、この絵に見えるように、塗り残しがあったり、遠近法を感じさせない大胆なトリミングや、踊り子という市民層を題材にするあたりは、当時のアカデミックな絵画価値でみると異端であり、評価し辛いものでした。

伝統的な美術教育を受けデッサンを重視していたドガは、デッサンよりも光の移り変わりを表現することを重視していた、モネやドガとたびたび衝突します。

1874年に第1回印象派展に、印象派のメンバーが終結し、自主展覧会はじめ、1877年の第3回大会までは足並みがそろっていましたが、以降はドガの意向が強くなり、ルノワール(第4回、1879年)やシスレー(第4回、1879年)、モネ(第5回、1880年)と立て続けに不参加を表明します。

しかも、1882年の第7回大会にドガが不参加になると、待てましたというように、ルノワール、シスレー、モネが復帰しています。よっぽどドガとの間に確執があったことがわかります。

気難しい性格で、インテリ。正統な美術教育を受けていない画家にとっては、「スネ夫みたいなやつだな」という感じだったのかもしれません。

あなたの周りにもいる? ドガっぽい人

移ろう光」に固執して、光ばかりを追い求めていたモネやルノワールといった画家たちとは異なり、ドガは、意識的に伝統的な絵画の刷新を求めた画家であります。

スナップ写真のように、日常の何気ないひとコマを切り取った、現代のInstagramのような構図は、詩人のボードレースが掲げた「モデルニテ(現代性)」そのものであるよ思います。

また、現代の感覚では想像しずらいですが、踊り子の稽古場というパトロンと踊り子のマッチングの場(バレエは、現代のように富裕層の習い事ではなく、ショーダンサーのような性質をもつ職業でした)を、赤裸々に描くさまは、近代化や産業化によって生まれたブルジョワジー(新興市民)の文化的接近を表わすジャーナリスティックな視点を感じます。

ドガは、踊り子の稽古場に通い、その場で多くのデッサンをしたといいます。この作品もそういった習作の1つかもしれません。尊敬するアングルの言いつけをドガはひたすら実践していたのではないでしょうか。

ちょっと気難しくて、頭でっかちなドガですが、絵を描くことは何かの使命のように、没頭していたものだったのではないでしょうか。

あなたの周りのドガっぽいひとを思い浮かべながら、《バレエの踊子》を鑑賞してみるのも良いかもしれません。


料理人付き編集者の活動などにご賛同いただけたら、サポートいただけるとうれしいです!