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Food|レストランへの愛をどう伝えるか

2月に、あるレストランで初めて食事をしたときの話をしようと思う。

最初に断っておくが、僕はそのレストランのことが好きだ。

店のフィロソフィーにも共感するし、店全体の責任者であるエグゼクティブシェフともにインタビューをしたこともあって、人間的な実直さ勤勉さ、伝統への敬意、革新の意思にも触れていて、信頼をしている。

しかし、だからといって、料理の味などに対しても共感できるかといえば、そうでないときもある。

仮にレストランに行って、もし自分の好みでなければ、「授業料だったな」と思って何事もなく帰って、二度と行かなければいい。

だけど、考え方や哲学に共感しているのなら、僕はできるだけ、自分が感じた違和感をレストランに伝えたいと思っている。そして、その後レストランにもう一度行きたい。そんな、レストランへの愛情表現の話。

個人の好みを伝えるよりも、料理の意図を聞く

この日支払った金額は、およそ3万6000円。夜のディナー料金と半量のアルコールペアリングに、消費税とサービス料が含まれている。

これを高いのか安いのかは、それぞれの価値観によるものなので、議論をするつもりはない。

コースの構成は、先付けのフィンガーフード(3種類)、アミューズ、スープ、前菜(温・冷)、魚、肉、デザート(3種類)、茶菓子。併せてパンが2種類出てくる。アルコールペアリングは、ヨーロッパとオセアニアのワインに日本酒もあった。

1人での訪問で、全体の食事時間は2時間45分ほど。

僕は、レストランで食事をするときに、「個人の好み」と「食べ手への伝わり方」を別々にして考えるようにしている。

個人の好み」というのは、たとえば僕の場合だと、素材の旨みを抽出して重ねていくものよりも、できるだけ素材の調理前の食感や風味が残っている料理が「好み」。しかし、これはあくまで僕の個人のもの。誰かと共有することは、ひじょうに難しい類のものだ。

一方で、たとえば「素材の香り」を引き立てるために、ある調味料を使った場合、その結果引き立てたかった素材の香りが、食べた人に意図通りに伝わっているかという問題は、好みとは別の話だ。それは、食べる側の経験にもよるし、料理人にとっての「伝える行為としての技術」の有無によるものでもあると思う。

そういうなかでは、食べる人と作った人のコミュニケーションによる答え合わせが必要なのではないか、と僕は思っている。

だからたとえば、僕にとって好みではない、つまり不快に近い違和感があったとしても、それが料理人にとっての意図であったとすれば、その調理法は効果があったといっていいと思っている。好きじゃないけど、やりたいことは伝わってくるし、意味あることだと応援したい。そんな感じといえる。

同時代性の欠如が、味に微妙な差を生む

レストランの話に戻そう。

コースを食べて、いくつかの違和感があった。主には、塩の多さ、ソースなどの粘性の高さ、旨味の重ね方。まずその違和感の正体を理解するためにシェフに質問をする。

この日、シェフとは初めて話したが、自分が感じた違和感に対して回答がしっかりあり納得できるものであった。また、会話をしたことで、話し方や、思考の傾向を見ることができて、シェフの人間性もより理解できように思う。

そのうえで、僕はシェフが「まわりが見えず、自分がどこにいるのかわからない」状況なのではないかと感じた。今の日本のレストランのなかで、どういう座標に置かれ、そこからどんな価値が生まれるのかという、全体のなかでものを見ること、前後の関係性の理解が出来ていないように感じた。

それがほんのわずかの差として、塩の振り方、テクスチャーの持って行き方、抜けのある旨味の作り方に出てきたのではないか。

こうしたことは同時代の料理、とくに東京の現代レストランの料理をもっと食べることができれば、すぐに解決すると思う。

僕の味覚が超高性能で、絶対味覚を持っているわけではない。しかし、少なくとも、高価格帯からリーズナブルな料理まで、広く食べる機会は、一般的な人たちよりは経験しているので、ある程度の現代料理の味のラインはわかる。

そんな僕が、塩が多い、口当たりがすべて重い、旨味が強すぎて1皿食べられない、と感じるのだから、東京の平均値よりはかなりズレた存在であると思う。

もちろん、平均に近づければ近づけるほど特徴のない料理人なっていくので、平均に寄せ過ぎる必要はない。また、僕が言いたいのは、顧客それぞれの好みを頭に入れて、味を微調整した方がいいということでもない。

東京にいる人たちの平均値、全体が共有している「空気感」のようなものに敏感であること。味の微妙な差は、これによって生まれると思っている。これを僕は、「味の同時代性」と呼んでいて、シェフにはその同時代性が薄いと感じた。

もし味の同時代性が濃いシェフであれば、「あえて塩を多くしている」、「あえて旨味の強さを伝えようとしている」、「あえて古典的なフランス料理への敬意を込めて強い粘性を採用している」としても、微妙な塩梅の部分で、時代の味という軸が意識されて、個性を保ちながらもバランスは崩れることはない。

ペアリングのアプローチが料理のフォローになっていた意味

もうひとつ「味の同時代性」のなさを感じたことが、その日の体験にある。ソムリエが選んだ「アルコールペアリング」だ。

提供されたアルコール自体は、1本1本が上質なワインや日本酒で、十分満足しできるものだった。

しかしぺアリングが、料理に違う光を当てたり、まったく未知の発見を生むような「創造的ペアリング」ではなく、すべてが料理のフォローになってしまっていたことが残念に思えた。たとえば、旨味を切るための酸や、食べ進める際のアクセントになるような香りを、料理の中にではなく、アルコールに求めようとしていたのだ。

ではなぜ、そんなことになっていたのか。

ソムリエに「料理をフォローしなくてはいけない」、という意識があったからではないだろうか。

知識のない、技術が未熟なソムリエであれば、無知ゆえの自己主張によって創造的なペアリングをすることもできただろう。しかし、この店のソムリエは、補わなければいけない部分があることがわかるからこそ、レストラン全体のためにフォローするペアリングをしなければならないことを理解していた。

実際、シェフとエグゼクティブシェフとの話が終わったあとに、「さまざま声をかけていただいてありがとうございました」と、テーブルに来てくださったときに、フォローのペアリングのことを聞いたら「その通りです」という答えが返ってきた。

フォローしなけばいけない状況であることが、ひるがえってこの店の料理の同時代性の薄さをしめすことになってしまっていたのだ。

料理で人生を変えてもらったことへの恩返し

最後にエグゼクティブシェフには、「お客様に寄り添える料理が作れるともっとよくなるのではないでしょうか」ということを伝えた。

ミシュランガイドの星を目指しているということをエグゼクティブシェフから聞いていた。

それは、今、客が求めているものをそのまま出した方がいいという、マーケット主義ということではない。レストランの目指すもの、提供したい料理をしっかりともったうえで、同時代性を意識して微調整することが必要だということではないだろうか。

じっさい、東京の星付きレストランにはこれまでいくつもいった。2020年に昇格した一つ星の料理も食べた。どういう味が、星を獲るのかは、僕の中に体験的につかめている方だと思う。

その感覚で言えば、もしもうワンステージこのレストランが上がったら、凄いことになると感じている。

フランス料理に敬意を現しながら、食材への固定概念を捨てて見つめ直す姿勢や、調理に対する科学的の視点など、進むべき方向はすでにしっかりしている。そのうえで、はっきりと輪郭のある塩使いや、心地よいテクスチャー、旨すぎても疲れない幅のある五味使いへの意識が加わったら、ものすごいレストランになることを想像するとワクワクしてくる。

そう思うと、「別に何も言わずに帰って、二度と来ない」という選択が僕にはできない。

わざわざ食後にこんなことを言ってでも、もう一度来たいと思ってしまう。たとえ今は、道の途上であっても、進む道を知っているレストランが、僕は好きだ。だから、姑の小言のようなことを、愛するレストランのために、迷惑に思われようがやっていくのだ。

僕は前職の料理雑誌編集者時代に、多くの一流レストランのシェフに話を聞いたり、実際試食させてもらる機会を、幸運ながら得た。普通の人にはできない舌の経験をさせてもらった。

それは、レストランとメディアの間に長く受け継がれてきた信頼関係、つまり過去のジャーナリストたちの料理や料理人、レストランに携わる人への真摯な姿勢の繰り返しがあったからこそ、何者でもない僕が貴重な恩恵をうけることができた。

そしてそうした経験によって、自分自身の仕事や生き方に対する意識を変えてもらい、いままで気づかなかった世界をみることにもつながった。

僕は、その恩返しをしないといけない。

だから、「おいしかったです」と言って、ただ帰るようなことはしない。自分に課せられた時代の継承だと思い、人からみたら言わなくてもいいことを、ずけずけと言う。

料理について感じたことを言ってくださる方がほとんどいないので、ありがとうございます

そう言っていただいた。僕の伝えたことが、正しいことなのか、判断することは難しい。しかし、ここまで伝えたことで、この次に来るのが楽しみになった。

その人間の振る舞いや一面的な発言ではなく、本質的な人間性を見つめることが長く続く友人との間にある。生き方には賛同しないけど、あなたという人間は好きだ。そういう存在が、あなたにもないだろうか。

そうやって「個人の好み」としてではなく、料理を通じて伝えたいことでレストランとつながっていけるのは、とても光栄なことだと思う。

愛しているレストランだからこそ、言いにくいこともいう。めんどくさがられてもいい。だってもう一度来たいから。

僕のことを「好きでもない味なのにまた来たいって、変なやつだ」そう思われるだろう。それでも、まったくかまわない。これが僕にとってのレストランへの愛の伝え方なのだから。

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