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Aat|ヤン・ステーン《農民一家の食事(食前の祈り)》 今が未来を決める分かれ道

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展の出品作の中から毎週1枚を取り上げて紹介していく、火曜の「Art」。今回で13回目(13枚目)になります。

昨年末から『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展 完全ガイドブック』(朝日新聞出版、1540円)を編集・制作していて、「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展 すごいぞ!!」ということを素直に感じて、ぜひ自分のnoteでもその魅力を発信していこうと紹介しだしたのが始まりです。

そしたら、新型コロナウィルスの影響で、3月3日だった開幕の延期が決まり、さらに本日(4/7)緊急事態宣言を受けて5月6日までの開幕延期がほぼ決定(国と都の施設の使用制限の要請が決定していないため「ほぼ」なのです)しました。

悲しんでいてもしょうがないので、引き続き、開幕されるまで、作品を紹介していきます!

進化している美術館サイトのコレクション紹介

今回紹介するのは、17世紀オランダの画家、ヤン・ステーンの 《農民一家の食事(食前の祈り)》です。

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ヤン・ステーン 《農民一家の食事(食前の祈り)
1665年頃 ロンドン・ナショナル・ギャラリー

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展 完全ガイドブック』を作っていたときに、何枚かの作品については、かなり調べていたこともあって、10枚目くらいまではその知識で書けたんですが、ここ何回かは、未知の領域。1枚1枚調べながら構成を考えています。

そんなときに役に立つのは、ロンドン・ナショナル・ギャラリーのサイトです。1作品ごとの解説が、他の美術館に比べてかなり充実しているので、イメージがわきやすいんです。しかも、最近はGoogle先生が翻訳をしてくれているので、原文と翻訳を見比べていくと、かなり内容がわかる。

さらに、作品の拡大して観ることができるのもすごくて、これだと、実際に美術館で観るのとまた違った情報を得ることができるので、本当にお勧め。ぜひ、リンク先に行ってみてください!

この作品解説を参考にしながらヤン・ステーン の《農民一家の食事(食前の祈り)》を見てみたいと思います。

食事の前に祈る敬虔な一家の日常が

ヤン・ステーンは、17世紀オランダの画家。フェルメールと同時代の風俗画家です(ステーン1626年生まれ、フェルメール1632年生まれ)。オランダのライデン(レンブラントもライデン生まれ)に生まれ、同地で制作の大半の活動をしました。

ほかの17世紀オランダの画家と同様に市民生活を描いていますが、ヤン・ステーンの風俗画は、羽目を外して酔っぱらう市民や、不倫や浮気を連想させる男女の日常などを、教訓的に描いているのが特徴といえます。

食事を準備する母と、それに対して手を合わせて祈る小さな娘と、帽子を手に持ちおとなしく待つ兄。その奥で、父がパンを切り分けています。小さな部屋で決して裕福とは言えない食事に対して、神への感謝を忘れずに祈る子どもたち。タイトルの通りが示す通り、敬虔なプロテスタントの一家の飾らない日常の一瞬が描かれているように見えます。

しかし、ロンドン・ナショナル・ギャラリーの解説によると、手前下の犬がその家族に対する「不安」を示していると指摘しています。なぜなら、家族とはちがって犬は、エサを待つことができずにボウルをなめまわしているからです。

そうです、この家族は犬のしつけを失敗しているのです。

犬のしつけの当番は、誰が担っていたのかはわかりません。しかし、犬のしつけができないこの家族には、もしかしたら、どこかにだらしなさや本質的な敬虔さが抜け落ちているのかもしれません。それが犬のしつけに現れているとみることもできるのです。

それに気が付いたうえで、この絵をもう一度見てみると、4人の一家も姿はまったく別の日常風景に見えてきます。

小さな娘は、形式的に手を合わせているだけで食べ物だけを凝視しているようにもみえます。兄も持つ帽子の下では、手を合わせてすらいないかもしれません。そしてそんな兄妹に「きちんとお祈りしなさい」と注意もせず、無関心に食事を用意している両親は、まるで犬に与える食事を作っているように、無感情に準備をしているようにも見えます。

つまり、犬の意味を考えると途端に描かれた日常の意味が変わってくるわけです。なんだか怖い絵ですね。

今は、つねに2つ道の分岐点である」。そんなことを問いかけてくるこのヤン・ステーンの教訓的な風俗画は、彼のまさしく真骨頂といえます。

希望とも絶望ともいえない世界に生きている

この絵のように、私たちはいくつかの未来の可能性のなかで、つねに選択をしながら生きています。

この絵の家族だって、次の瞬間に母が、「ちゃんと目を閉じて祈りないさい。あなたも、帽子を置いてきて、手を合わせなさい」と注意をするかもしれないし、その役目を父親が担うかもしれません。もちろんその逆もあって、このまま食事が始まるかもしれません。

しかし、注意をしなかったからといって兄妹の素行が悪くなるという確証があるわけでもありません。

おそらく、ヤン・ステーン自身も、その家族が行き着く先がどんな日常になるのかは、わかっていないでしょうし、そのことを描きたいわけでもないと思います。

大事なのは、どの道も、決して善悪や成功や失敗でわりきれるようなものでなく、選びながらいかようにな未来も実現できる可能性を秘めている。そんな、希望とも絶望ともいえないこの世界に、私たちは生きているのだ、ということを語りかたかったのではないでしょうか。

17世紀のオランダは、海洋貿易によって世界をリードする覇権国家になっていました。市民が主役になって日常を謳歌する人類史上初めての国だったオランダにあって、栄枯盛衰、永遠はなく、世界は必ず変わる。

未来に「約束」がないなかで、人間はどう生きるんだ? 今やることはなんだ? というヤン・ステーンが込めたこの本質的な問いかけは、いま新型コロナウィルスに戦う世界にとっても、とても大切な問いかけなのではないでしょうか。

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