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Art|ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルド 《マグダラのマリア》 スナップショットの感性

開幕が延期になって、再開のめどがたっていないロンドン・ナショナル・ギャラリー展を応援するために、火曜の「Art」では出品作の中から毎週1枚を取り上げて紹介していっています。この企画も今回で18回目(18枚目)になりました。

先週は、イタリア・ヴェネツィア派の巨匠ティッツィアーノが、聖人マグダラのマリアと復活したイエス・キリストの再会シーンを描いた《ノリ・メ・タンゲレ》を紹介しました。じつは、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展には、もう1枚、マグダラのマリアをモティーフにた絵があります。

ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルド 《マグダラのマリア》です。

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ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルド 《マグダラのマリア
1535-40年頃 ロンドン・ナショナル・ギャラリー


僕、意外と、西洋美術のことを知っているつもりだったのですが、ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルドという画家のことは全く知りませんでした。

調べてみると、ヴェネツィアで活躍した画家で、先週紹介したティツィアーノから影響を受けているという説があるそうです。しかしながら、それ以外のことはわまりわからず。Wikipediaでも、サヴォルドの絵は、一時ヴェネツィア派のジョルジョーネに帰属されていたようで、「忘れられた画家」というような存在のようです。

まだまだ知らないことって、いっぱいあるんですね。勉強になりました。

そういった予備知識を抜きにして、この絵は、ルネサンス期の特徴である体や顔が正面の正面性や、全身を映す努力、描かれる人の地位や属性を示すような小道具や背景処理を放棄した絵なので、「なんとも近代的な作品だな」と感じました。

だいたい、ルネサンス期の絵はびしっと決めたポーズをとって描くというのが普通でした。ある意味、それが人物の方さに繋がっているのですが、絵画が権威や財力の象徴だったことを考えると、カンヴァスのなかに永遠に自分の姿や一族の歴史をとどめてときたいと思うのは当然のことです(結婚記念日に正装して写真を撮るのに似ています)。

それなのに、サヴォルドの絵は、そうした従来の絵の中に物語を留める工夫をほとんどしていません。

先週紹介した「ノリ・メ・タンゲレ(noli me tangere)」と比べてみると、そのあたりが一目瞭然です。

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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 《ノリ・メ・タンゲレ
1514年頃 ロンドン・ナショナル・ギャラリー

磔にあって死んだはずのイエスの亡骸が墓にないことを知って焦ったマグダラのマリアに、「実は生きてました~」と言って現れたイエスに、マグダラのマリアがすがろうとするとイエスが「私に触るな」といったという話です。

ティツィアーノの絵は、上に書いたようなストーリーが場面から聞こえてきそうな状況説明に長けた構図になっています(もちろん、それ以外のテクニックや表現があるので、それだけでいいか悪いかは判断できませんが)。

一方で、サヴォルドの絵は、イエスの亡骸が消えて途方にくれていたマグダラのマリアに、イエスが声をかけた瞬間、その一瞬だけを描いたように見える。前後の物語性をまったく喚起させない絵、スナップショットのように一瞬をとらえた、その瞬間だけで作品の質が決まるようなものに似ている。

たとえばこういったスナップショット的な作品は、17世紀オランダにはあった。たとえばフェルメールの作品にも、メイドが食事の支度をする姿をのぞき見的に描いた《牛乳を注ぐ女》や、少女が振り返った瞬間を活写した《真珠の耳飾りの少女》などがあります。しかし、サヴォルドの方がそれより100年くらい先の画家です。ルネサンスが始まったばかりで、この近代的な感性すごいって思います。

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ヨハネス・フェルメール《牛乳を注ぐ女
1658~60年頃 アムステルダム国立美術館

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ヨハネス・フェルメール《真珠の首飾りの少女
1665~66年頃 マウリッツハイス美術館

サヴォルドの作品は、よく見ると背景に墓所のような石積みがあったり、奥にヴェネツィアらしい港の景色が描かれているので、まったく物語性がないわけではないのですが、スナップショットのような絵画なので、情報よりもそこに描かれているマグダラのマリアの風貌や絵から感じる人となりのようなものに気が向かいます。

こういったスナップショットに似た、大胆なトリミングの手法は、近代の画家では、ドガやボナール、クリムトなどが実装していますが、僕の知る限りで(大したことはないです)、ルネサンス期にはサヴォルド以外ないんじゃないかと思います(少しだけカラヴァッチオもあるかもしれませんが)。

白いサテンのマントなどは、もう少し質感があってもいいかな、という技術的な物足りなさはあるのですが、マントの影で見えにくなってる、マグダラのマリアの表情などを見ると、サヴォルドの真骨頂は、そういうことではないんじゃないかなと思うようになりました。

人を見つめて、絵の中で生きているように見せる。物語ではなく、あくまで人を描きたいという思いが、伝わってくるような気がする。

じつはサヴォルドの作品自体は期待していなかったのですが、先週noteを書いたことで、いろいろな発見をすることができました。それがなかったらきっと見過ごしていた作品なのではないかな、と思っています。

実際に、まだ絵の実物を観に行くことはできませんが、オンラインで作品を観たり調べたりすると、気づけることはたくさんある。

なので、かならずしも実物を観ることだけが、いいわけではないように思う。じっさい、実物をとっかえひっかえ並べ替えて比較するようなことは、オンラインでないと無理、だけど知識が得られて楽しい、みたいなのも十分美術を感じるうえでの体験なのではないでしょうか。

実際に絵を観に行くことが、高価な体験になっていきそうなウィズコロナの世界。医療や経済の判断によって、アートやカルチャーの進歩を妨げてはいけないと思いたときに、オンラインでもアートの可能性があるのではないかと、少しづつ思い始めています。

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昨年12月から編集を担当した「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展 完全ガイドブック (AERAムック)」も、Amazonで発売になっています!


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