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「ヤバい」国を造る——トルコ共和国に至る歴史を研究するモチベーション

「ヤバい」国との出会い

 トルコとは、かなり「ヤバい」国だ——私はこう思っています。

 2014年3月26日、学部を卒業して修士課程進学を控えた私は、短い旅に出ました。行先はトルコのイスタンブル、ここは卒論の題材としたオスマン帝国の都です。そんなイスタンブルに着いた私が一番驚いたのは、トルコ国旗の存在感でした。

赤地に白抜きの三日月と星のトルコ国旗
右端に見えるのはアタテュルク
イスタンブルの中心部、タクスィム広場にて

 イスタンブルでは、波止場という波止場、ショッピングモールや小売商店等、あらゆる場所にトルコ国旗が掲げられていました。アパートを見れば国旗を窓に掲げた家が見え、路上には国旗を売り歩く人もいました。こうしたあらゆる光景が「ここはトルコ共和国である」と強調していました。

 さらに驚いたのが、トルコ共和国の建国者にして初代大統領であるムスタファ・ケマル・アタテュルクをモチーフにした旗やステッカーの存在です。彼の姿も、車のフロントガラスからスマホの壁紙まで、あらゆる場所で見ることができました。はたして日本で、そんなにたくさんの日の丸を見ることがあるでしょうか? 明治天皇の描かれたスマホカバーを使う人を見ることがあるでしょうか? 答えは断然ノーです。だから2014年春、私はトルコを「ヤバい」国だと思ったのです。

 私がトルコでこれほどの国旗を目にしたのはなぜでしょうか? 100年も前の指導者であるアタテュルクが、今だにどこにでもいるのはなぜなのでしょうか?

 私は2017年春から2019年冬までのトルコ留学中、いろいろな人にこの疑問について聞いてみました。高校生の友人からは「いまトルコに住んでいる人の祖先の多くは、故郷を追われてトルコにやってきた難民だった。もう二度と故郷を失わないという思いで、国旗を掲げているんだ」と聞きました。「トルコ人は掲げた国旗をいかなる状況でも下ろしたりしない。それは祖国を失うことと同じだからだ」とも聞きました。他にも、病院で勤務している姐さんからは「アタテュルクは女性の地位を高めた素晴らしい指導者だったからとても好きなんだ」と聞きました。

 トルコには”Devlet ana”、つまり(すごく和訳しにくいですが)「お国のおふくろ」という言い回しがありますが、国旗やアタテュルクが表象する国家というものへのトルコ人の視線には、尊敬や愛情など、母親を見るような熱っぽい感情があるように思われます。

「ヤバい」国の「ヤバい」歌

 こうした感情の一方で、国旗やアタテュルクをあちこちに掲げなければ「おふくろがいなくなってしまう」という恐怖もトルコ人は抱えているようです。この国家喪失を連想することで生まれる恐怖は「わたしのトルコ」という歌にとてもよく表現されているように思います。

「わたしのトルコ」を歌うミュシェッレフ・アカイ
※トルコ民族主義を考えるうえで、彼女が金髪白皙であること、背景が古代ギリシア遺跡であることには強い意味があるはずである。

「わたしのトルコ」
〽わたしの勇敢な民族に裏切り者が入りこんでいる 胸の内は痛みと嫌悪でいっぱいだ わたしの敵は正々堂々としてない、全員卑怯者だ トルコ人にはトルコ人の他に友なんていないのだ

〽アタテュルクの下さった原則のもとで頑張ろう 彼の示した目標へ走ろう わたしのトルコ、わたしのトルコ、わたしの天国 かけがえのないわたしの国民

 1980年、極右・極左テロが吹き荒れたトルコでは、軍部がクーデタによる事態鎮静化に乗り出しました。この「わたしのトルコ」という歌は、トルコ人の「あるべき思想」を国民に教え伝えるために軍部が作成させたものであり、当時のテレビで盛んに放送されました。極左・極右、そしてクルド民族主義者を収監した刑務所では、拷問や洗脳のために夜通しこの歌が流されたそうです。

 この歌の歌詞は「トルコには卑怯な裏切り者がいる、だけどトルコは天国である」という風にまとめられるでしょう。しかしこれほど追い詰められているのにトルコが天国であるというのは、かなり「ヤバい」精神状態であると私は思います。トルコには”Devlet baba”、つまり「お国のおやじ」という言い回しもありますが、絶対にトルコ人はこの親父に虐待されてるんじゃないかという気がします。

「ヤバい」国の解剖学

「わたしのトルコ」が示す追い詰められた感情、これをいかに理解すればよいのでしょうか?

 トルコには、自分たちは外敵に囲まれている、内側には裏切り者がいるという「セーヴル・シンドローム」と呼ばれる言説があると主張されています。これは、セーヴル条約(1920年)でオスマン帝国が事実上解体されるまでに至る、列強による度重なる「侵略戦争」、そしてその度に露わになる非トルコ人の「裏切り」というトラウマ、さらにアタテュルクがトルコ共和国を建国(1923年)した後も同じことが繰り返されるのではないかという恐怖、こうした近現代史の経験と記憶に由来していると考えられています。

セーヴル条約によるオスマン帝国領分割

 ここで注目したいのが、トルコ語の”devlet”、つまり「国家」という単語には「幸い」という意味もあるということです。この不思議な同音異義は、遠く古代までさかのぼるそうです。近代オスマン帝国史研究者のカーター・フィンドリーは、古代トルコから現代トルコまでを概観し、トルコの歴史の特徴として「国家の半神格化」を挙げています。つまりトルコ人にとって、国家は人々に幸福をもたらす「半神」だと言うのです。

 こうして見てみると、トルコ人にとり、国家とは論理の外にある、愛情や恐怖といった感情的なものだと想像できます。もしそうだとすれば、この人たちと同じトラウマや恐怖を共有していない外国人である私がトルコを「ヤバい」国だと思うことは、ある意味で当たり前なのかもしれません。

「ヤバい」国の「ヤバい」人

 今まで述べてきたように、トルコ人は国家をとても重視しているわけですが、一部には、国家喪失を恐れるだけでなく、積極的・衝動的に行動してそれを守る人もいます。

 トルコには「頭に国家がとまるか、骸にカラスがとまるか(Ya devlet başa, ya kuzgun leşe)」という不思議な成句があります。これは“Devlet kuşu”、いわば「お国の鳥」という聖獣が頭にとまって国家の指導権をもたらすという逸話から転じており、日本語ではだいたい「一か八か」というような意味で用いられています。つまりこの働きがお国に認められるか、それとも死んでカラスの餌になるかということでしょう。そんな成句を象徴する人物として、セダート・ペケルという有名なターキッシュ・マフィアがいます。

インタビューを受けるセダート・ペケル

 140JournosというYouTuberが行ったインタビューで、彼は「国家をはじめて『感じた』」ときのことを話しています。ある日、不良少年セダートは暴漢から女性を救うために徒手短剣で闘い、私闘の罪で警察に拘束されてしまいます。しかし警察官は「お前は不良で、俺は警察官だけど、俺もお前も国家の守り人(bekçi)だ。だからお前は正しいことをしたんだ」と言ってセダート少年を釈放します。つまり、国家の力が及ばないときに「一か八か」という気持ちで国家のかわりに暴力を振るうことは正しいことらしいのです。やがてセダート少年は、国家の力が及ばないアンダーグラウンドな世界で、国家のために暴力を振るう存在になります。

 彼はマフィアですが、マフィアのようにダークな暴力を振るう特殊部隊が密かに国家を守るようなドラマは、トルコではかなり人気です。「一か八か」勇敢に「お国のおふくろ」を守る、これはトルコ人の好むモチーフの一つでしょう。アタテュルクのはじめたトルコ独立戦争にならって「国民軍精神(Kuvva-yı milliye ruhu)」なんて言いますが、彼だって軍の統帥を無視して「一か八か」トルコ独立戦争をはじめた国家の守り人の一人でした。

「ヤバい」国の造り手たち

 この「守り人」という表現を好んで使う組織がトルコにはあります。それが、士官学校行進曲で「我らこそ共和国の不死の守り人(nigâhban)」と歌うトルコ共和国軍です。

行進するトルコ共和国陸軍将兵
「トルコ人たることは何と幸いなことか」
「全ては祖国のために」と叫ぶ

 アタテュルクが作り上げた共和国軍は、彼自身や国旗と同様、トルコでは国家を表象するという意味では別格の存在です。少し前までのトルコは国民皆兵で、男は兵士に、女は兵士の母になるのが当たり前でしたし、政治に積極的無関心を貫くSFヲタクの友人が、実は予備将校だったことを知って驚いたこともあります。

 そんなトルコ共和国を造った人々に関する研究書を読んでいて、非常に感じ入ったフレーズに出会ったことがあります。それは「どうすればこの国家を救えるか?(Bu devlet nasıl kurtarılabilir?)」という、1900年代にオスマン帝国士官学校を卒業したムスリムの青年将校たちの問いです。

 彼らはやがてオスマン帝国を清算してトルコ共和国を建国するけれども、若いころは、オスマン帝国という「瀕死の病人」となった「祖国を救うため」命すら投げ打っていました。彼らは対ゲリラ戦争もしたし、革命もしたし、複数の列強国を向こうに世界大戦も戦いました。しかし同じ青年将校は、同じ「国家を救う」という問いのもと、軍事力を活かして非ムスリムを抑圧し、さらにはオスマン帝国を「人口工学の実験室」として扱って強制移住や虐殺という形で何百万という人々を物理的に排除していきました。

 彼らはこれほどの努力と流血にもかかわらずオスマン帝国という祖国を救えませんでした。その代わりに、オスマン家やイスラームやコスモポリタニズムを捨てて彼らが造ったのは、トルコ共和国でした。だからその国は、多民族国家のオスマン帝国とは180度違う、非トルコ人の存在をなかったことにする共和国でした。しかも1913年にはギリシア領となるサロニカ出身のアタテュルクにとって、トルコの大部分を占めるアナトリアは野卑な異郷でしかありませんでした。

 先に触れたように、故郷を喪失したアタテュルクのような人はトルコでは珍しくありません。モチーフとしてのトルコ国旗を強く愛する人が、チェルケス人出自だったり、ブルガリア出身だったりする、こういう人と留学中によく出会いました。トルコ共和国が造られるに至る歴史には、人々の感じた強い喪失が染みついているはずなのです。

「ヤバい」国の「ヤバさ」を知る

1938年11月10日、アタテュルクはこの寝台で逝去した。
イスタンブルのドルマバフチェ宮殿にて

 国家を父母と呼び、愛しながらも恐れるトルコ人。

 国家を救うために命を賭しながらも、その国家たるオスマン帝国を暴力的に清算し、異郷に故郷を造った将校たち。

「天国」を造ったはずなのに、どう考えても「天国」に見えない。あまりにも感情的な「トルコ狂乱」——。

 この「ヤバい」国の人たちは、はためく国旗を見るとき、何を思い浮かべているのでしょうか?

 これを知りたい。それこそが、私が近代オスマン帝国史を研究する上での感情的な動機です。

「ヤバい」国の「ヤバさ」を知る。



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