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最愛の人の亡骸には三億円の価値があるので、その愛を証明してください。 〜【読書感想】 夏の終わりに君が死ねば完璧だったから〜


「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」 斜線堂有紀


弥子さんと過ごした時間には一銭の価値も無いのに、彼女の死体には三億円以上の価値がある。
叶うならば、僕は弥子さんへの気持ちを、一つの大きな結晶にしてしまいたかった。
「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」

片田舎の昴台という町に住む中学三年生の少年、江都日向(エト ヒナタ)は家庭環境を理由に、将来になんの希望も見出せないでいた。「私はそう遠くないうちに死ぬ」と、まるでとっておきのサプライズかのように告げたのは、昴台にあるサナトリウムに入院している都村弥子(ツムラ ヤコ)。

「単刀直入に言うよ。エト、私を相続しないか?」
「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」

多発性金化金線維異形成症、通称「金魂病」。国内の患者数はたったの七人。極めて特殊な難病としてされたのこの病に侵された人間の体は、死後、文字通り『金』へと変質する。発症時から少しずつ筋肉が硬化し、骨に侵食されていく。その侵食する骨が、極めて金に近い物質へと変異してしまう病。

「私の死体は三億円で売れるんだ」
「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」

自身の死後、金へと変質した自分自身の死体が生み出す三億円を、出会ったばかりの江都に相続したいと言い出した都村弥子。彼女は相続の条件にチェッカーというボードゲーム勝負を持ちかける。黒と白の市松模様、チェス版の上に並べた十二個のコマ。一度でも江都が勝利すれば、三億円を相続する。それが都村弥子の提示した条件だった。
三億円があれば、きっとなんだってできる。三億円があれば、人生が変わる。あの家を、この昴台だって出ていける。

人間が変質した金と同質の物体は、人間なのか金なのか。あまりにも価値の高い物質だからこそ、値を付けることと付けないこと、どちらが冒涜なのか。

「おかしくないですか? 人間なのに」
「あるいは人間だからこそ」
「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」P39

都村弥子の死とそれに紐づく三億円という価値が、人々を、二人の運命を狂わせる。

「チェッカーていうのはな、ミスさえしなければいいゲームだ」
「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」P41

その愛は本物ですか?と問いかけられた時、人はどうやって誰かとの関係を証明すればいいのだろう。なぜ誰かとの関係を、他人に証明しなければいけないのだろう。三億円という膨大な、目に見える価値が、人ひとりの命の重みと倫理の輪郭を暈していく。
────二人が選ぶ「正解」とは?






またしてもやってくれたなぁ斜線堂先生〜〜〜!!!

斜線堂有紀先生は、個人的に最近ハマっている作家さんなのですが……。
こりゃあ、すごいよ。
この作品に興味を持ってくれた人は是非読んでほしいし、斜線堂先生の他作品も是非読んでいただきたい!!
特に「恋に至る病」と「私が大好きな小説家を殺すまで」は本当にお薦めなのでぜひに。というか上記二冊は絶対ブログ書くからな。

斜線堂先生は、枯渇しうる才能や愛の倫理観を描く天才だと思っているんですが。特に後者がふんだんに発揮されすぎている作品でした……。
誰かを愛するということは、一体どういうことなのか。それは時に盲信や執着、慈愛や敬愛、様々な形に姿を変えて人生という物語を大きく揺るがしていく。斜線堂先生の描く人間と愛と社会と倫理の世界、是非味わってほしい。






人か、金か、はたまたそれ以外か。


人が人たり得る所以、ってなんなんでしょう。
その答えはとても難しく、ちょっとやそっとの考えでは結論の出ない。というか、出るのなら今頃私は有名な哲学者にでもなってるかな。

それでも私は、自分が自分で、人たらしめるものを考え続けることこそがその答えの一つになるのではないかな、とも思っていたり。

高校生の頃一番好きな授業は倫理世界史でした。
その倫理の初回の授業、一発目の質問は突拍子もなく、猛烈な導入でした。

「人が人たらしめる、それ以外の生物とは決定的に違うものは何か?」
理性があること、だと思います」

実際この解答は正解だったらしく、知識としてなんとなく知っていた答えでした。人類だけが持っている、人が人たらしめる理由は、理性である。
その時は迷いもなくそうだと信じていたけど、今振り返ると少しだけ疑問が残る。

なんらかの理由で理性が欠如している人は、人ではないのかな。

生まれたばかりの赤ちゃんは?
植物状態になってしまった人は?
理性を司る脳の部分に損傷をきたしてしまった人は?
もうすでに、亡くなってしまった遺体は?

本作は、最後の疑問に強く訴えかけてくる。
亡くなってしまった人は、その亡骸は、人間として扱われるべきなのか。
もし人間として以外の価値がある何か、もしそれが金と全く同じ性質の物体なのだとしたら、一体何として捉えるべきなのだろうか。


「金と殆ど同質な物体を、それも人間と同じくらいの質量のものを、無料で国に引き渡すのはどうなのって話になったんだわ。いやぁ、誰が言い出したんだろうね。人間が変質したんだからそれは人間なのか、それとも金と同じ組成をしているからそれはやはり金なのか。死体なのか元素なのか、人間はこんな問題に取り組む素地を持たなかった」
「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」P38

この物語の本題の一つがここで描かれています。

「死んではダメよ、生きていなきゃ何もできない。死んだら何もなくなるのよ」
と人はよく言うけれど。
そりゃあそうだ。
人は生きているからこそ何かに出会い、何かを感じて、何かを生み出し、失っては、また何かを得ることができる。それは全て生きているからこそ。
人間は生きているからこそ、何かを得て何かの価値を生むことができる。
モノを作ったり、お金を稼いだり、寄付したり、買ったり。

でももしも、この物語のように。
亡くなってから莫大な価値を生み出すとしたら??

著書の中では都村弥子が亡くなると、
「国」は金と同じ物質に変わりゆく遺体を検体として受け取る。
主人公「エト」は三億円を手にする。

直接的な影響を受けるのはこの二つですが、都村弥子が死後生み出すものがあまりにも莫大すぎる価値であるが故に、それ以外の大勢が彼女の影響の波紋を受け取ろうと変わり果てていく様が物語でも描かれています。

エトが受け取る三億円のおこぼれを受け取れると信じてやまない「エトの母親」。エトが受け取った三億円を、彼はこの街昴台の発展のために寄付してくれると信じてやまない「近所の人」。この劇的な物語で視聴率が取れると確信している「マスコミ」。

彼らは全員、都村弥子の死を前提に生まれる三億円を確信します。彼らにとってはおそらく、都村弥子の亡骸は「人」ではなく「金」なのでしょう。
だって、自分の愛する人の死に対してはそんなふうに考えないだろうから。

この、確かにリアルで、リアルだと共感できるからこそ恐ろしくも忠実な人間描写も本作の面白さの一つだと思います。






人生には、劇的なカタルシスなんてないのかもしれない。


体が震え上がるような劣情も、灯るだけで人生を導いてくれるような愛情も、何もかもを終末へと塗り替える絶望も、この世の中には意外にもないのかもしれない。

人生とは思考、選択、行動の積み重ねで、それらが地続きとなったある日、振り返った自分の後ろに、人生と呼べる道が足跡のように浮かび上がっているようなものなのかもしれない。生まれた瞬間から、もしくはそれよりも前から示されている道なんてものはなくて、生の誕生とともにスタート地点に立たされてからは、結局は自分の思考、選択、行動の結果が道を成していくんだと思う。

ある日突然産声を上げて立たされたスタート地点は、千差万別で、不条理なほど大きな影響力を持っている。「生まれが違えば」と思う人生を歩む人だって、絶対にいるのだから。

本作の主人公江都も、自分の人生に対して「生まれが違えば」と強く思った一人であった。
自身の強い思想に基づき、攻撃的になってしまった母。いつぞやの熱意は消え去り、虚無感と劣等感だけが残り変わり果ててしまった母親の彼氏。金銭的にも精神的にも、中学生の彼にとってあまりにも過酷な家庭環境から、彼は昴台を出ていくことにひどく焦がれます。

そんな江都にとって、都村弥子との出会いも、三億円という価値も、突然目の前に降ってきた人生を転換させるための転機となります。物語の主人公が、突然人生を大きく変える劇的な何かに出会うように。

きっと、作中のマスコミや江都の母親、二人を取り巻く周囲の人々は彼らが佇む渦中の出来事を、まるで物語の一編のように見ていたことでしょう。そこには運命的な、もしくは宿命なのか、何かどうしようもなく大きな力が働いて彼らの人生を大きく揺るがしているに違いない。ここには激情に駆られる物語があるに違いないと、信じてやまない。

もちろん、都村弥子がこの金魂病を患ったことは、本人がどうしようもない運命だったのかもしれません。それでも本作は、彼らを渦巻くすべての出来事を、彼らの選択の一手一手が積み上げた結果だということを描き切ります。

「チェッカーていうのはな、ミスさえしなければいいゲームだ。」


この物語の本質は、作中でも物語を動かす大きな鍵の一つであるチェッカーの戦局によく似ていると、個人的には感じています。(というか、そこに準えて描いてるからこそチェッカーというゲームを作中に用いてるやとはもちろん思いますが!!)ボードゲームの一種であるチェッカーはルール上偶然の要素がない、二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されます。なんやねんそれって感じる方も多いかとは思いますが、いわば、運に一切左右されないゲームということです。

運に一切左右されない。チェッカーは、一手も間違えることなくゲームを進めれば、負けることはない。と、作中の人物は断言しています。私自身実際にプレイしたことはありませんが、物語の中で江都は次第にその感覚を掴んでいきます。
彼らは運に左右されないゲームの中で勝利を目指し、正解を積み重ねながら、時には引き分けに持ち込む

斜線堂先生がこの物語で描いた二人の人生も、やがてチェッカーのように正解を積み重ねていきます。

実際には人生の正解なんてきっと誰にもわからないけれど、二人は互いに正解だと、最善だと思う一手を、決断を積み重ねながら着実に時を重ねます。その先にはきっと、第三者も大正解だと太鼓判を押すような結末だって得られるのでしょう。

その結末はぜひ読んで確認してほしい!!!!!!






二人が選んだのは勝利か、正解か、引き分けか。


ここからは完全に結末の話、ネタバレどころの騒ぎではないし、本作を読んでない人はぜひとも読んでからこの続きを見てほしい。読了した方都、私の考えを共有する気持ちで書いています。


物語の結末。都村弥子が残した、江都が受け取ったあのお金は、一体どんな意味だったんだろう。

都村弥子の指一本分相当。その指は、左手の薬指なのかもしれない。

江都は結局、都村弥子に一度もチェッカーで勝てなかった。
三億円は、手に入れられなかった。


それでも私は、その結末にこの上なく感動して、救われたような気がしました。
江都が三億円を受け取らなくてよかった。彼にとって、彼らにとって最後に手にしたお金は、運命なんかに左右されないで二人が選び出した結果なのだと、心からそう思うことができた。

難しいなぁ、何て説明したらこの気持ちを全部形容できるだろう。

でもなんだか、私の脳裏では最後に都村弥子が、自身の体を蝕んだ病に、彼女を翻弄し続けた社会に、運命に、不適な笑みを浮かべているように感じてやまなかった。
やってやったぞ、見たか。これが私の選んだ結果だと、高らかに見せつけるような結末。

これ以上の結末はないのではないかと思った。
それはすなわち、チェッカーで言うところの正解の一手なのかもしれない。そう思わざるを得ない圧巻の物語でした。



斜線堂ワールドへようこそ。

愛とは、生とは、死とは、才能とは、正義とは、過ちとは。決して一言では片付けられない、それでも皆が知った気になってしまう倫理観に、今一度光を当ててくれる。

誰しもに膨大な人生という物語があるのだと改めて知らしめてくれる、そんな作品を生み出してくれる斜線堂先生の作品を、ぜひ一度読んでみてほしい。







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