今日も普通の日
いつも子どもたちに聞く言葉がある。
「今日はどうだった?」だ。
それは挨拶みたいなもので、習慣化されている。
大抵子どもたちは、何か特別なことがあった日は進んで話をしてくるので、あえて「今日はどうだった?」と聞く必要もないが、なぜか聞いてしまう。
「普通かな・・・」
と、息子が答えた。
普通というその声や、放つ色がいつも通りだと感じると、
「よかったね」
と返しておく。
そんなテンプレートのような会話をしながら、息子と娘と3人で食卓を囲む。
小4の娘にも聞いてみた。
「普通だよ。それにがんばった」
と、答えた。
娘の場合は、「普通」の後に「がんばった」がつく。
不登校だった娘は、今年に入ってから、毎日午前中だけは学校へと行けるようになっていた。いつも給食を食べる前に早退するのだが、今日はなんと、何ヶ月も食べていなかった給食を食べてから帰ることができたのだ。
その普通は普通であるけれど、娘にとって色々な思いがある普通なのだと思うと、普通は一体何なのかと疑問に思ってしまった。
「がんばったね。給食美味しかった?」
「おいしかったよ」
「よかったね」
それぞれの世界を頑張って過ごし、夜には揃っていつも通りの会話をして過ごす。なんて幸せなのか。でもこの普通は、はたして普通なのだろうか。考えれば考えるほど、なんだか泣けてきそうになる。危ない。
私は旨い焼酎を一口飲んだ。
今日一日、普通で平和に過ごせたことは、とても幸せなのだと感じる。
「お母さんはどうだったの?」
いつもどおりの質問を返される。
「普通に疲れたよ」
と答える。
疲れすぎているので、あえて疲れた内容は話さない。普通の範囲内のいつも通りの忙しさで過ごした、平和な一日だった。
「よかったね」
と、子どもたちは微笑んでくれた。
今日という普通の一日が、もうすぐ終わる。
家族と当たり前に過ごす時間に、好きな焼酎を呑み、好物のスルメをつまみにするという至福の時。
毎日飽きるほどに同じ言葉を交わすが、それがとても落ち着き、癒される。
普通で最高の、私が好きな時間だ。
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