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切り離す過去

 髪の毛は大切だ。
 ありすぎても鬱陶しいし、少なすぎても悲しくなる。
 髪の量が多いか少ないか。長いか短いか。
 その差で周りから見られる印象は大分変わる。実年齢と見た目年齢もそれで左右されるものだ。
 自分の一部のそれにハサミを入れて切り離しても痛みは感じないが、本当に痛くないのだろうか。
 感じようとすれば、心はざわつくものなのかもしれない。
 
 私はその髪について、美容院へと行った翌日に「髪切った?」と聞かれるのがものすごく苦手だ。
 髪を切ったという質問の後にプラスの意味の言葉がくっついていれば、「ありがとう」と言えるが、似合うのか変なのか、質問主の意見も分からないただの「髪切った?」だけでは、見れば分かるでしょと思ってしまう。
 私だったら、その微々たる変化に素敵だと感動しない限り何のコメントも発しないだろう。
「髪切った?」
「切りましたけど何か?」
 と内心では返したくなる。
 変なのか、良いのか、それがわかる一言がないのなら、気づかないフリをしてほしいと黒い私は思う。答えるの面倒だから。

 私の中に一部ある陽の部分がほとんどなのだと思っている人懐っこい人たちが、
「失恋したの?」
 などと冗談で聞いてくる。
 私はそれに対して、何かしら同じ温度で返さねばならない。なるべく聞き手が笑ってくれるような返しをだ。だから髪をバッサリと切ることは極力しなかった。誰にも気づかれないギリギリの線で髪を切るのが理想だ。
 バッサリと髪を切ることは、心を消耗する。
 それをわかっていながら、今日、私はバッサリと髪を切りたくなった。
 これから切り落とし捨てようとする髪。その毛先が毛根にあった頃はいつぐらいの過去なのか考えた。その毛根から生えた毛が今の毛先になるまで、大切な誰かと、どんな風に、どんな気持ちで過ごしていたのかなんて考えた。
 とても大切な時間を共に過ごしていた髪を、私から切り離す。
 今までただの髪を切るという行為にそこまで考えたことはなかったのに、なぜ今朝はそう考えたのか。どうでも良すぎることを考える自分に、冷めた私が笑ってしまいそうになる。
 ただの髪の毛じゃないか。
 ただ頭の毛根から生え伸びた毛だ。
 そこに山があるから登ると同じで、そこに毛が生えて伸びて鬱陶しいから切る。ごく自然な事のはず。
 だが、今回はしっくりこない。


 考えるに、去年から時が止まったままの私の一部を、手放したいようなそんな気持ちがあるのかもしれない。
 手放したところで大切だった思い出は、心の奥に残っているのだから変わりはしないのに。
 髪を切って失恋したとか聞く輩がいるのは、きっと、そんな気持ちを経験したことのある、人間らしい人間なのかもしれない。
 それがやっと分かったような気がした。
 

 バッサリとやった。
 体感では、脱皮したような清々しい気分だ。
 鏡に写る私は、別の私のようだった。
 悲しそうには見えないので、気に入っているのだろう。
 その変化に気づいてくれる人がいるということは、私が透明人間ではないという証で、ありがたいことなのだ。
「髪切った?」には感謝すべきだと思い直した。

 私は今、生きている。
 だから自然と髪が伸びるし、伸びたそれに何かしらの感情を持ち、それを伸ばすか切るかの選択をする。
「髪切った?」
 と聞かれれば、
「似合うでしょ?」
 と肯定を促すように聞き返すし、
「かわいいね!」
 と言われれば、
「分かってる」
 と笑顔で答える。
「失恋した?」
 と聞かれれば、
「あなたに」
 と答えてみよう。
 透明人間でない私に、何かしら反応をしてくれた人の反応を、見てみたい。


 
 

 
 

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