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黒いヤツへのレクイエム

仕事を終え職員玄関から外へと出ると、まだ明るく日が差していた。足早に駐車場へと続く鉄骨階段を駆け上がる。なるべく早くに家へと帰り、やるべき事を片付けたい。しかし私は、その足を途中で止めた。

鉄骨階段の最上段から4段下の左端には、黒い虫がひっくり返っていたからだ。
その黒い虫に、もしもご家庭のキッチンやリビングで出会ってしまったのなら、大抵誰もが奇声を発し、恐怖と嫌悪におののきながら殺虫スプレーを撒くだろう。
 
私も黒いヤツが嫌いだ。
嫌いなんてなまっちょろい感情じゃ収まりきらない。心の底にある感情の沼からは、嫌いという黒の気持ちが永遠に湧き上がるほどに嫌いすぎる存在だ。
ヤツは、家庭用よりも二回りほど大きかった。
私が勤めている職場は、山に囲まれた田舎にある。多分近くの山で平和に暮らしていた天然の大きな黒いヤツなのだろうと予想した。
 
それが、鉄骨階段の最上段から4段下の左端でひっくり返り、足をジタバタさせているのだ。
私はその恐怖の黒い塊を確認し、自分の心から湧き上がるいくつもの感情の色を味わった。そして、警戒しながらその横をすり抜けた。
 

翌朝の出勤時。
駐車場から少し急いで歩みを進めた。
鉄骨階段を降りようとして、その存在が視界に映り、ゾッとした。
最上段から4段目には、昨日ひっくり返ってジタバタしていた黒いヤツが、未だにそこにいた。ほとんど動きは見られなく、元気がない。
昨日初めて発見した時は、先入観をとっぱらったら、ヤツは良きニュースにハシャイデいるようにも見えたし、抱えきれない怒りに大暴れしてあがいているようにも見えた。
しかし私は長年この地球上に住んでいるから、ヤツがムカデの駆除用の為にまかれた白い粉の罠にはまり、ジタバタともがき苦しんでいるのが正解だということは、承知している。
 
一日目は激しくジタバタしていたから、その横を通り抜けるのがとても怖かった。
二日目の朝は止まっていて、それの恐ろしさに少し免疫がついていた。
前日と引き続き、気持ちの良い晴れの日だった。そんな日にヤツは土にも返れない鉄骨階段の上で静かだった。
いい加減だれかヤツをどうにかしてくれないか。と、私はその横をすり抜けた。
 
二日目の帰り。
鉄骨階段の最上段から4段目には、未だにヤツがひっくり返っていた。
その横を通過しようと見たら、ヤツは激しく足をバタバタとさせているじゃないか。たまげた。今朝は少しも動いていなかったのに、9時間後の夕方にはこんなにもジタバタしていて、私は恐怖で声にならない声を上げた。
 
なんてしぶといヤツなんだろう……。
 
もしも、この黒いヤツが毎年施設に巣を作りにやってくる可愛いツバメの雛だったなら、どうなんだろう。
巣から落ちて死ぬ運命の雛を、生き物好きの職員が引き取って、ツバメの雛に生餌を与え、その生命を続けられる快適な環境にて成長させてから空へと放っていた。その後渡り鳥としてその子は生きていけるのかは疑問だが、私が知る限り命は続いた。
 
今、鉄骨階段でひっくり返っているヤツは、その横を大勢の職員が通りすぎていっただろうに、2日経った今も、状況は変わらなかった。
嫌われものの虫だけに無視され、今に至る。
だからって、私はその黒い虫に何もできないし関わりたくもない。ジタバタするヤツの姿が、私に何かを訴えていそうだ。でも訴えられても困るから、だれか私の代わりにコイツをせめても土の上でジタバタさせてあげてほしいと願った。
 
三日目の朝。
鉄骨階段の、最上段から下の4段目には、まだヤツはいた。
私はその一段上からヤツを観察した。
もうビクとも動いてはいなかった。
ヤツの魂は天に召され、脱け殻だけが硬い鉄骨階段の上にある。
いつまでここに居続けるのか。
だれか蹴っ飛ばしてでも、この黒い塊を土の上へと落としてはくれないだろうか。
私には到底その役目はできない。
勇気がない。それに私がやる必要はないし、きっと誰かがやるだろうと目を背けてしまった。
 
三日目の夕方。
仕事を終えて駐車場へと階段を上がると、未だに黒いヤツの脱け殻はそこにいた。
この三日間、誰一人として相手にされず放置された黒いヤツは、ひっくり返った状態の動かない黒い塊としてまだそこにいた。
 
『あなたが別の命なら、もうここにはいなかったのかもね……』

私は意を決して、右スニーカーの内側側面で、黒い塊を階段の下へと蹴っ飛ばした。
上手く落ちていかない。その黒い塊を、中段、下段、とそれぞれで蹴っ飛ばした。ヤツは鉄骨素材からアスファルト素材へと転がり落ちた。まだまだ足りない。
私は土があるところへと、恐怖におののきながらヤツを蹴飛ばし続けた。

土へとたどり着いた。
ところでなぜ私がこんなことをしなければいけないのか。私の貴重な時間を無駄にした。迷惑でしかない。しかし、私の心は何故だか明るかった。
これでヤツは土に返れるし、私も目障りなヤツを見なくて済む。
ヤツと出会って三日。嫌いなそれについて、どれだけ考えさせられたことか。

ただ願うが、我が家にだけは出て来てほしくない。絶対絶対絶対に会いたくない。
これはお笑いでいうフリでも何でもないから宜しく頼みたい。
自宅でヤツに会ってしまったら私はきっと、奇声を発しながら強力な殺虫剤を撒き散らすに違いないから。だから来ないで。
我が家は立ち入り禁止だから。絶対。
 

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