写真から「欲求」を取り除き、ひたむきに「表現」に向き合うことは、たぶん、いまの私には無理だと思う
大好きな写真家・上田義彦さんの写真展が昨日まで代官山で開催していた。
いつものことながら、私は滑り込みで最終日に足を運んだ。
(同時開催の六本木の小山登美彦ギャラリーでは8月26日までやってます!)
1990年から2011年まで、上田さんが撮影したサントリーウーロン茶の広告写真の展示と、撮影で訪れた中国の風景を35mmカメラでスナップ撮影した写真が展示されていた。
広告写真は大判カメラで撮影していて、大きく印刷された写真は観た瞬間に「大判だな」と私が分かるくらい圧巻でとても素敵な展示だった。
最終日ということもあったのか、上田さんもいらっしゃって、作品集を購入した人にサインをしていた。大御所なのに、物腰の柔らかい雰囲気を持つ人だなあと、上田さんを観察して感じた。
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広告として烏龍茶の写真の記憶は、ファンビンビンのカフェでカレーを食べているシーンだ。とても可愛らしい女の子で、親近感を感じながらも、異国の雰囲気を感じさせる写真が当時からとても印象的だった。
展示会場ではスナップ写真も含めると、かなりの数の写真が飾られていた。1990年から2011年という、まだいまの中国のような先進国でも経済大国でもなく、ただゆるやかに少しずつ変容していく中国が映し出されていた。
どれも、上田さん自身で現像しているらしく、20年もの歳月を掛けて撮影した写真たちは、私にとっては「時間」というものを感じさせない、ただただ「世界」を表現しているような写真のように感じた。
なぜだろう。1990年から2011年というゆるやかに発展している中国の様子がそう感じさせるのかもしれない。
また、スナップ写真は上田さんの視線そのもので、うまく撮ろうとか、そういう意図がまったくないようで、ある意味では記録写真のようにも感じた。
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そして、できるだけゆっくり、時間を掛けて一枚一枚の写真を観ていて、私は感じた。
「ああ、上田さんの写真には欲求というものがないのかもしれない」
と。もちろん、私の感想なので、上田さん自身の思いには「欲求」が写真に含まれているのかもしれない。でも、私は彼の写真からは、「欲求」というものを削ぎ落とし、ただただ「表現」のみが残った写真だと感じた。
以前から、上田さんの写真集はよく観ている。そのときからずっと感じていた、SNSでバズって流れてくる写真とは異次元過ぎる別格感(大御所過ぎて当たり前だし、比べるのもおこがましいし、こんな言い方はファンの方に怒られそうですが)を感じていて、ずっと言語化できずにただただとにかく魅かれる写真たちばかりだっだけど、今回の写真展でプリントした「写真」として観たときに、改めてそれは何だったのかを認識することができた。
「欲求」なき「表現」
そういえば、私も含めてSNSに溢れている写真は欲求に浸されまくったものばかりだなあと改めて感じてしまった。(一般の方だけじゃなく、写真家と名乗る人も含めて)
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私は自分の欲求のためにシャッターを押している。このnoteでも何度かそのことは書いた。自分の心を救うため。自分の心を整理整頓するため。そして、現像してできた写真は誰かに観てもらいたい。自分の写真が誰かの人生の良い方向転換のきっかけになれば良いと。そして、いまは生きていくために写真を撮っている。
もちろん、写真を撮り続けるために自分にとっての「表現とはなにか」を考えているけれど、必ず「欲求」が隣り合わせに存在する。
また、SNSで写真をあげていれば、ほとんどの人が経験する「いいね」や「フォロワー」という存在を気にすること。承認欲求だ。
よく、「フォロワー○○人達成ありがとうございます!」とか「いいね○○個ありがとうございます」という、いわゆるバズりな写真を目にすることがある。誰かの心に寄り添ったり、元気をお裾分けできているのであれば、別に悪いことだとは思っていない。それを書き込んだ人の思いも分からないので、私の勝手な感想なのだけれど、ああいう文言もセットなバズった写真は100パーセント純粋な「表現」とは思えなくなってしまうのだ。(ひねくれものですんません)
けど、そういうものを少しだけ羨ましく思う瞬間があったりもする。
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余談だけれど、私は岡本太郎が好きで、たまに青山にある岡本太郎記念館に足を運ぶ。
私的パワースポットであり、いつも私の背中を押してくれる大切な場所で。ただただ立っているだけでも涙が出てきてしまう場所だ。
そういえば、岡本太郎の作品も上田さんの写真に近いものを感じる。表現に対しては欲求で満ち溢れているけれど。
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どうやったら「欲求」を取り除き、ただただひたむきに「表現」に向き合うことができるのだろう。たぶん、いまの私には無理だと思う。
いろいろなことに縛られ過ぎて「表現」だけに注力することは難しいと思う。
これは以前から思っていたことで、誹謗中傷の道具にもなり得る(というか実際になってるのだけれど)、X(twitter)は数年前から辞めたいと思っているけれど、仕事関係のこともあって、のらりくらりと続けている。包丁だって、使う人にとっては便利な料理道具だし、人を傷つけるものにでもなる。使い方次第なのかしらと最近は思うようになっているけれど、SNSでの誹謗中傷のニュースを見てしまうと、同じプラットフォームで自分の写真を投稿するのに嫌悪感を感じてしまうことがある。
そうは思いながらも、誰かに見てもらうために、仕事のためにと投稿している自分がいるのが事実だ。
もちろん、SNSがすべて悪いものではないとは思っている。SNSがなければ出会えなかった大切な人や、情報もある。私が写真展を開催したときも、SNSをきっかけに足を運んでくれた人がいるのも事実。感謝している。
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私は天才でもないし、努力家でもないので、そもそも芸術家になるというのは無理な話なのだ。きっと「表現」だけで、写真を撮るというのは無理なのだ。
だからこそ、「時代なんだよ」と鼻で笑うのではなく、ちゃんと向き合って、「表現」と「欲求」のバランスをうまく保ちながら、写真を撮って、世の中に出すのが、いまの自分ができることなのだと思う。
具体的な答えは今のところ私自身にもないし、誰かから教えてもらえる正解もない。
ただ、写真展というリアルな場で人に写真を観てもらうということは、私の答えに繋がるものなのではないかと思っている。
写真展に訪れた人が私の写真を観てくれているときの表情や感想を伝えてくれる言葉は、私が探している答えのピースのような気がしている。そして、写真を撮る原動力になっている。
外出制限もなくなったいま、かなりご無沙汰だった活動を再開したいなと思っている。
「表現とは」は自分で見つけなくちゃいけないんだよな。
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最後まで読んでいただいてありがとうございます。写真展が続けられるようにサポートしていただけるとありがたいです…!