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「夜風が気持ちいい」に年齢は関係ない。そんな写真を撮りたい。

「暑いっすね〜」
何度目だろう。撮影の待機中に出てきた言葉だ。

今年はじめての真夏日に日中の外での撮影が入り、炎天下のなかで出る言葉と言ったらこれくらいしかない。思考が停止するので、お互いにいつもより言葉数が減っている。とりあえず仕事モードですよ、という気持ちを表す合図のように「暑いっすね〜」となんとなく言っている。

そんな「暑いっすね〜」の球をのんびりキャッチボールしていると、ふと「でも、いまくらいの季節の夜の気温とか空気っていいですよね〜」と急に違った球が返ってきてハッと我に返った。

「たしかにこのくらいの季節の夜は過ごしやすくて良いよね」
「ついつい夜に散歩とかしちゃいますよね」
「うん。夜風も気持ち良いよね。もう、ずっとこの季節だといいのに〜ってなるよね。」

「暑いっすね〜」の応酬から、急になんだかセンチメンタルな気持ちになるような会話がはじまった。きっと会話している相手にとっては「エモい」という表現になるのかもしれない。そっかぁ。10個以上も年下の子たちと同じような気持ちになることってあるんだなぁと自分に感心した。

私が撮る写真はいわゆる「エモい」という写真には分類されないと思っている。フィルムで撮っていても、若者の儚い一瞬を切り取るでもないし、ザラついて荒々しい画質にしたりしない。なぜって私はもう大人だし、あの初々しくて瑞々しい輪の外にいる人間だからだ。意図してそういう写真を撮ることもできるけど、きっとそれはどこか「嘘」がある写真になってしまう気がしているから、撮らないようにしている。

若い子たちが実際に手にしたことはないけど「なんか懐かしい」という商品だったり、カルチャー、景色に私はリアルタイムでどっぷり浸かっていた。若者たちと同じように「かわいい」と言っても、どこかきっと私と10代や20代前半の彼ら彼女らとは「生きてきた時代」という大きな壁があって、受け取り方とか視点が違うんだろうなとずっと思っていた。

だから、私の写真もいまの若い子たちに共感や好きと思ってもらえなくても、「まあ、生きている時代が違うもんね。仕方ない。」くらいに思っていた。

でも、昨日の炎天下で20代前半の大学生の子と話したあの会話は、「生きてきた時代」とかそんなものを取っ払って、もっと自分たちの奥深くにある生きていて心地の良いものを共有できた瞬間だった気がする。

そして、自分が撮りたい写真ってそういうものだったよな、と思い出した。生きている時代や住んでいる場所、人種や性別とかも関係なく、自分たちの心の奥底で繋がり合えるような、そんな写真を撮れたらよいなと思っている。

「夜風も気持ち良いよね。もう、ずっとこの季節だといいのに〜ってなるよね。」

わたしの写真を観てそんなふうに感じてくれて、そこからみんながそれぞれいろんな行動を起こしてくれたら嬉しいなって思う。(たとえばビールの缶をプシュッとあけてみるとか)


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