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プロフィール

大久保惠理

1976年
北九州市生まれ

生まれてすぐ埼玉へ
父は美容関係のトップセールスマンで
幼い頃は弟もいて家族4人裕福な暮らしをしていました

私が小学生にあがるぐらいに家を買い
引っ越した埼玉の家が不幸の始まりだったのか

まず飼っていたインコが喧嘩してなのか
ある日2匹ともトリカゴの中で死んでから
家の周りにドクダミが咲き
家中に蟻がじゅうたんのように這っていたり
奇妙なことが起きだし
その頃、私も黒い影と遊んでいた

そして事故で弟が脳出血となり
私が6歳、弟が4歳の時に弟が亡くなりました

弟が闘病している時から私はおばあちゃんとの生活で
それからも私がしっかりしなきゃと
親に甘えられず生きてきました

弟が亡くなってから間もなく
父は独立して事業をたちあげていたけど失敗し

夜中にトラックで母と犬を連れて
夜逃げしてやってきたのが
小学校3年生、三重にやってきました

そこから大きく人生は変わりました

まず標準語だった私は三重の言葉が分からず
いじめられ、子供ならすぐ馴染むものの
トラウマになって三重弁は話さずじまい

父は親戚からカラオケ喫茶をまかされて経営しだしました
それがターニングポイントだったのか…

小学校5年生になったくらいに
私は歌謡教室に通うようになる

好きで歌ってただけなのに
休みの日でも色んなイベントで歌わされるようになり
テレビにも出て、新聞にも
歌手になるえりちゃんみたいにでかでか一面に出たために
近所では有名人、私を知らない人はいなかった

そして中学生、大阪で行われた
「スター誕生」のラジオ番組で優勝して事務所に入ることに

父はレッスンでも何でもマネージャーとしてついてきた
そしてCDをだすためレコーディングに行くのだけれど

なんと私のレコーディングについてきた父は
レコード会社の人と仲良くなり
自分で曲を書き、その当時はカセットだけど
そのレコード会社から自分もデビューした

その頃は私の曲も父の曲も有線で聞けたけど
父は自分の曲ばかりリクエストしていた

小・中学生、私はほとんど同級生と遊ぶことはなく
歌謡曲だったけどアイドルとして大人の世界にいた

レコーディングが終わると
私はその作曲家の弟と言う人を紹介され
有名なプロデューサーだったけど
その人に私は託された

高校も芸能人が卒業したところを選び
あらかじめ父が芸能活動で休むことが多いことを
学校に了承してもらいに挨拶にいったり

私は事務所から色んなオーディションを受けさせられていた

そんな高校2年生の時、拒食症になる
色んなことが限界だった
芸能界の裏も嫌なことたくさん見た

そして音楽も学業も一旦ストップ
自分では病気認識がなかったのもあって色々、長かった

最終、命の危機で1ヶ月三重大に入院して
病気を受け入れた私はなんとか命は助かったけれど

一番、死にたい時だった
一番自分を見失っていた

本当に自分が望んでやっていたことではないから
学校も1年遅れた、友達もいない

でも、私には選択が「音楽」しかなかった
そんな人生が嫌だった

そこから私は自分で音楽をする選択をして
家を出て高校に通い
働きながら自分でギターで曲を作り始めた

卒業してからは大阪に住み
プロデューサーと一緒に音源作りをして
東京のレコード会社をまわったり
一人で飛び込みでいったこともあった

そこからもっともっと自分の音楽がしたくて
バンドのメンバー探しをして出会ったのが
元の旦那さん
私は22、3歳の頃
私は絶対に自分が作った曲しか歌わなかった

内に秘めたエネルギーが凄くて
とにかく男にも負けたくなかったし、人生に反発してたのか
髪も金髪で激しくロックしてた頃

とあるオーディションで私達が目にとまり
デビューしないかって話になって
何度も二人で東京に行ったのに
結局、120万ぐらい騙されて一文無しに

26歳の時本気でプロ目指すなら結婚してからにしろって
父に言われて結婚したのに騙されて…

仕方なく元旦那さんと三重の実家に戻る

そこからも音楽活動は続く
年齢も重ねて癒し系の曲を作るように
三重のバンド仲間もたくさんできた

でも私達は遊びじゃないから
プロになりたい私達の思いは交差していく

元旦那さんは仕事しながらの音楽活動
寝ないで頑張ってくれてたのに
私はもっと音楽がしたい1番になりたい気持ちでいっぱい

そんな時、他のバンドマンと恋をする
凄くサポートしてくれて
三重県でアマチュアの1番にもなった

それは私が欲しかった結果だけど
私生活は終わりを迎える

良いことも悪いこともたくさん勉強させてもらって
離婚も私には感謝しかない

最後の方は私も初めて正社員で働き
ブラックな営業会社だったけど手取り40万の仕事

ここまで音楽だけで生きてきたけど
1番と言う形ももらえて私も36歳
今思うと何故?と思うけど
もうプロにはなれないと自分で区切りをつけてしまった
私の音楽の歴史は元旦那さんがいなければ終わり

大きな終わりの時でした

そこから一人
最後の仕事に選んだのは美容の仕事、エステティシャン
このエステティシャンは天職だったなと思うくらい
私の心と体を作る基礎が築けました
たくさんの人の心と体に触れさせてもらって

39歳、一人で老後をむかえるのは嫌だなと思い
出逢いにアンテナを向けて出会ったのは
今の最高すぎる旦那さん
40歳直前で結婚しました

今の旦那さんに出会ったのが運命で
私の不思議な力も目覚め
これが本来の私なのかもしれません
また色んなものが見えるように…

エステティシャンも本当に誠心誠意尽くしてきましたが
尽くしすぎてか44歳、膠原病を発症し
やむなく会社を辞めました

そこから本来の自分で生きるべく
マインドフルネスを勉強し講師の資格も取り

新たなスタート
45歳 Vi Mapinと言う
ヴィーガングルテンフリーの心と体に優しいマフィン屋で起業し

46歳見えない世界を大切にする生き方をしたいと模索
インド占星術に出会う

47歳、インド占星術のナディーリーダーのご縁もあり
「預言の葉」を開く

父の死からのギフト
人と関わって生きていく、「人を幸せにする」を掲げて
自分の夢と共にみんなの夢を叶えられる世界を作ろうとしています

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私の得意能力は「先見の明」

マヤ暦でも「青い鷲」を持っていて
私のスピリチュアルな能力と思われがちな
人の心が見えたり先読みができるのは
元々、備わっている力です

これが新しいものを生み出したり
正しい道へ導けたりします

私は私を利用してもらうためにも
私を知ってもらうためにプロフィールを書きました

私の経験は誰かのためになる
病気もいいことも、悪いことも
あなたが前に進む力になれば

私は𝑹𝒆𝒂𝒍 𝒘𝒐𝒏𝒅𝒆𝒓𝒍𝒂𝒏𝒅を作りたい
皆んながありのまま夢や希望を叶えられる世界

🌿ともだちの葉🌿
@venus.eri

あなたを幸せにするお手伝いをさせて下さい

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