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どれでもいいからはじめてみよう、という時、ホントにどれでもいいの?

穏やかな春の朝


やらなきゃいけないし、やりたいと思っていることがあるなら、どれでもいいからはじめてみよう!…ってホントにどれでもいいの?

今週、全然違う場所で同じテーマのはなしが4回繰り返された。4回も!

ひとつは、学術研究者と活動家の集まる会議のファシリテーションの現場で。それぞれの組織から代表が集まってくる協働事務局会議。各組織でやりたいことはあるし、集まったからにはなにかやりたい、成果を出さなきゃいけないと思っている。でもいま一つテーマが定まらない。取り上げたいテーマを出しあう。「人権」「地球環境の再生」「コレクティブインパクト」「ネイチャーポジティブ」…いろんな言葉が並ぶ。ではこれのどれをテーマに、どう進めていきましょうか?たがいにみあって議論がスタック。話題を整理して再度参集することに。

ふたつめは、ビジネスイノベーションのワークショップの場で。様々な企業から参加者が集まってくる6-70人のワークショップ。3人の方に全体に対して事例を投げ込んでもらい、それを基に参加者が議論したい話題を付箋に書き出す。新鮮な視点で話題を出してもらうと、色んなテーマが集まってくるもので、カテゴリーに分けて、ワールドカフェ形式でワイワイ議論。取り組んだら面白そう!というトピックが見えてくる。さてどれからはじめましょうか?それは各自に任される。

みっつめは、地域の子ども達とのカイギ。今年の「こどものまち」どうするどうする?10月の開催に向けて、やれること(日程や会場的な制約)を伝える。この範囲でできることはなんだろう。なにを、どの順番で決めていこう。今年は年初にチームを分ける。リーダー、会計、広報、デザイン。どのチームは何を担当するか?までは決めた。でもそこでふと考えるべきことが止まる。やりたいことを膨らませたいけど、期限があってやらなきゃいけないこともあるとなると、急にどれからやったらいいかわからなくなるんだ。次回の会議までに、どの順番で考えたらいいかの整理が必要だね、といって終わる。

そしてよっつめ。自分のコーチングの時間。同時進行ですすめている仕事や、活動や、家のこと。どれも大事だし、どれもやりたいことだし、やらなきゃいけないことでもある。どれでもいいからとにかくはじめないと…と思うんだけど、そんなこんなで今週同じテーマがループしてるんですよね。活路を見出したいです・・・という話をしたら、マイコーチから『どれでもいいからはじめてみたらいい、ってホントにどれでもいいの?』と問われる。確かに!

「どれでもいい」の最初のひとつめはどう選ぶか?

『「やるべきこと」や「やりたいこと」がキラキラ~っと光る河原の石みたいにいっぱい落ちてるとして、最初のひとつ目はどれを拾う?』とマイコーチ。

「拾ってほしそうな石から拾うかなぁ。」と私。つまり、ちゃんと反応してくれそうな人との仕事からはじめるという意味で。ガッツリスタートせず、まずは「石を持ってみて、次の一手がみえるかどうか。みえなかったらまた一度河原に戻す」。とこたえる。『なんか浮かない顔してるよ?』とマイコーチ。うーん。ちょっと違うのかも?

「やっぱり、自分が拾いたい石から拾うかなぁ。」と私。面白そう、やってみたい。気分が赴くものからやりはじめる。そういうものは、ぱぁっと次のToDoリストが浮かんでくることが多い。「やりたいこと」と「やるべきこと」が脈絡なく次々浮かんでくるから、さっとノートや付箋に書き出していく。『うんうん。でももうちょっと、なんか違うなって顔してるよ?』とマイコーチ。なんだろう、このモヤっと感。そんなこともう、いつもやってる気がする。もうちょっと先に行きたいかも?

「自分の持続可能性がみえるものを拾いたいって思うんですよね」と私は話しはじめた。最初に言った、「拾ってほしそう」というのは大事で、スタートするときは相手があることがほとんどだけど、相手もスタートしたいと思っているということが大事。その相手の準備が、気持ちが、あったまっていることって大事。

単に、「はじめよう」の裏にこれだけの葛藤があり、選択の仕方があるものかと改めて気づいた。

ホントはどれでもよくない。ファーストペンギンが飛び込むのを待っている。

色んな人と話し合ってテーマを出した結果、「どれでもいいからはじめてみよう」となったとき。それはみんな「なにかをはじめる」ことは理解している。「はーじめーるよー!!」の全体アナウンスはみんながきいているのだ。

でも「はーじめーるよー!」の全体アナウンスじゃ動き出しづらい。なぜかって、「なにからはじめればいいか」より「誰からはじまるか」が大事なのかもしれないからだ。ファーストペンギンが飛び込むのを待っている。社会人を長くやり過ぎて見についてしまったよくない癖は、「いいだしっぺになることを怖がること」だった。「はーじめーるよー!」の全体アナウンスをする役目を担うことは多いけど、必死に「これはいいだしっぺという意味ではなくて、全体アナウンスです」という態度をとりつづけようとしてきた。でも、なんもはじまらない。

どれからはじめる?それって、ファーストペンギンの覚悟と同じじゃないのか?「はじめてみよう」ってハードルの低い言葉に聞こえてたけど、「ファーストペンギン」のことだ。結構難しいことをやろうとしているんだったのだ。これは大変なことだったのか。


ファーストペンギンは、フォロワーペンギンがいてこそファーストペンギンでいられる

「はーじめーるよー!」の全体アナウンスをする役目を担っている時点で、よく頑張っているのだ。まずは自分を肯定することから。その上で次に何をするか。それは最初の葛藤の中にヒントがあった。「持続可能性」。つまりは、つづけらるかどうか。具体的に一緒にやるパートナーが見つかるかどうか。ファーストペンギンは、ひとりで飛び込んで誰もついてこなければ、ただの単独行動でしかない。フォロワーペンギンがいてこそ、はじまる。

じゃぁ、そのフォロワーをどう探すのか。「やりたいです」と手を挙げる人を待つ?これには、「やりたい人ができる人じゃない」という問題をはらんでいる。「できる人」や「一緒にやりたい人」に声をかけるのが一番いい方法だ。声をかけるのがなんとももうしわけない気がして手が出せない領域なのだけど。

実際、個別にそっと、声をかけてもらいたいと思っている人は多い。自分からやりたいならやりたいといえばいいじゃないかー、というのは発信側の論理で、他の人と同列でみあっている状態で手を挙げるのってなかなかできないもの。発信する人は、そういう視点に立ちなおさないといけない。

学生時代に、個別にそっと、の声かけのウマい人がいた。その振る舞いを思いだしてみると、日常的に共同相手を探していたような気がする。一緒にやるとしたら何を頼もうか?と考えながら対峙している。だから、何かやるときに誰に声をかけるかがすぐ浮かぶようなのだ。彼から声をかけられると嬉しい。つい手伝ってしまう。

『もしかしたら、みんな声をかけられるのを待ってるかもよ?』とマイコーチ。つい、頼むときって申し訳ないと思いがちで頼めないのだけど、とこたえる。『じゃぁ、声をかけるときに、これだけは絶対に約束できる、公約みたいなものってありそうですか?』といわれて、「必ず、ひとりにはしない。」と反射的にこたえた。あ、これだな!

結論。どれでもは良くないです!

結論。やらなきゃいけないからといって、やりたいとおもってることがあるからといって、どれかでもはじめていいわけじゃなさそうです。だからといって考え過ぎることはない。一緒にやりたい人と、やりたいことからはじめるとよさそうです。

そして、私の場合は、あなたとやりたいです、ひとりにはしないよ、と伝えるところは丁寧に。


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