恋やら愛やら
今日のヘッダーは、日曜の午後に昼寝をするパートナーの上でなんか嬉しそうなシャチです。
彼のお気に入り。よく見ると彼が右手で押さえながら寝ているのも可愛い。
出逢って10年になるパートナーとの話です。
高校2年生の時から恋愛をしている私たちも、もうすぐ26歳になります。
年々仲が良くなっているなと思っていますが、それは今よりもっと若い十代の私たちには想像のできない事でした。
大人たちはみんな「大人は大変だよ」「恋愛はスタート(始まる前という人もいる)が一番楽しいよね」「男はみんな〇〇(大抵は嘲る言葉)だから」などと、今しかない青春を謳歌するようアドバイスしてきました。
ただ、大人になった今感じるのは、付き合い始めも、それから1年後も3年後も5年後も、ずっとその時にしか味わえない恋愛の楽しさみたいなものがあったし、それは今も日々新しく生まれ続けているという事です。
それは、きっと恋愛とは本質的にこういうものなのだろうという事と、たくさん努力しているもん!そりゃそうでなくっちゃ!と、どこかエッヘン!みたいな気持ちがあります。
iOSのアップデート、欠かさずやってきたもん!という感じ。
一緒に生きるための努力というのは、一緒に見た世界の色の数、一緒に食べたおいしい何かの味、お互いの心の破片を見せてもらった経験などに応じて、不定期でゲームのカセットが増えていくような感じで、その度に必ず勉強が必要でした。
これは恋愛に限らず、人間関係において私が常々思っている事なのですが、脳トレクイズなんかで良く見る、時間の経過につれて絵の一部が変化するだまし絵のようだと思うのです。
じっと観察していたとしても、変化に気がつけない事がある。
かといって、目を離し時間をおいて見てみれば全く違う絵に変わってしまっていて、「あなた誰ですか?」となりかねない。
振り返って見ると私たちの日々は、そういった変化にことごとく負け続けた日々でした。
この苦しい世界で、ふたりともそれぞれに苦しいのに、柔軟にしなやかに〜なんて生きられるはずがない。
「また大きい波きたぞ〜〜!」
「無理!次は絶対に無理!溺れる!!」
「あれ、嘘でしょ、溺れるどころか干上がってない??」
「え…いつの間に…水…水をください…」
みたいな感じ。
何度も何度もそういうことがあって、大波や干ばつに慣れることもずっと無く、ひぃひぃ言いながら、なんで一緒に居続けたのかという理由は、いつかのエッセイでもちょろっと書きましたが、やっぱり「なんとなく」です。
シャチのぬいぐるみを大事に抱え、よく笑いよく食べよく眠るこの人といる時だけ、なんとなくまだ生きられる気がした。
そのなんとなくは、すごく特別で、何でも代わりにならなかった。
いつ終わるか知らない、この生命を燃やし、絶やさずこの人を愛していたいと、なんとなく、そう思うのです。
今の私にとっての恋やら愛やらは、
雷に打たれたらどうしようという心配
雨に濡れずに帰ってきて欲しいという祈り
おいしいお弁当で元気をあげたいという応援
暑い日には小指で手をつなぐ温もり
いびきをかいていたら鼻をくすぐるイタズラ心
です。
これからも生活が続く限り、私たちはひぃひぃ言いながら、そういうものを抱きしめ生きていきます。
雨の音が心地良い夜に、なんとなくの決意をここに。