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いつか悲しみを超える時が来るのかもしれないとまで思う、あなたの表情のはなし

「楽しい?」とか
「おいしい?」とか
「嬉しい感じの気持ち?」とか、
よく聞いてしまう。

ダイニングテーブルを挟んで向かいに座り、夕飯を頬張りニコニコするあなたを見ている時や、あなたの生まれた日を祝うべくサプライズデートに連れ出しキラキラと子どものように目を輝かせるあなたを見て、こちらまでにやけてしまうような時には、必ず聞いてしまう。
人によっては「恩着せがましいな」とか思われそうなものだけど、パートナーにそういったことを言われたためしは無く、必ず丁寧に答えてくれる。

「やあ〜楽しいね」
「おいしい、うますぎる!このカレー大ヒット!」
「嬉しいよーー誕生日さいこうっ!」
などと笑うので、私は今日も懲りもせず、あなたのその顔が見たくて聞いてしまうのだと思う。


先日、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』を観劇してきた。
誕生日に合わせ5ヶ月前からチケットを確保していたけれど、当日までデートの内容は秘密に。

「夢の中だけは、完全に自分ひとりだけの世界だ 」- アルバス ダンブルドア


彼は、シネマ・コンサートにもひとりで足を運び、映画に登場する魔法はおそらく全て言えるほどのハリー・ポッターシリーズファン。
ちなみに、好きな魔法は「姿くらまし」らしい。
私はというと、ハリー、ハーマイオニーくらいしか登場人物の名前は知らない金曜ロードショー派だった。はずが、いつの間にかシリーズ全作一気見ウィークなるものを自主的に開催し、部屋の電気をつける時に「ルーモス!」とか言いたくなるくらいには、作品に魅了されていた。
好きな人の好きなものを、知らぬ間に自分も好きになってしまうのは、この世界でいくつかある奇跡のうちのひとつのような気がしている。

「ルーモス!」


これから観劇できるのだと知った時のハッと息を飲んだ表情や、魔法の世界に染まる赤坂一体の装飾をひたすら写真に収める横顔、舞台が始まる直前まであらゆる角度からシリーズの復習に努める真剣さ(それはこちらが笑いを堪えるのに必死になるほど)、滅多に物を欲しがらない彼がグッズをじっと見つめ「これは欲しい…欲しすぎる…」と呟き光らせた目の輝き。

すべて、私への贈り物のようだった。


これは喩えに過ぎないのだけれど。
静かに季節が過ぎてゆくなかで、体の中のどこかにシンシンと降り積もる何かを感じる時がある。
それはずっと降り続けていて、見上げるとそこには分厚い雲が張っている。
何枚着重ねていようと、どこかからやってくる冷たい風がその下の私自身を凍えさせる。
でもその降り積もる何かは私の大好きな雪とは違い、もっと物悲しい何かで。

ある時から苦しみをそんな風に感じるようになった。

子どもの頃は、たくさんの人の期待に応えたくて、それが私の喜びでもあって、夢に似た希望を持って「私、なんでもできるよ!どこにだっていける気がするよ」と光り、示すことが生きることなんだと思っていた。

でも違った。

シンシンと降り積もる何かに気がつくようになったその頃から、生きることは出来ないことが増えてゆくことなんだと思うようになった。
もうあの時みたいに、もっともっとと、そんなことを思ってはいけない。
そんなことを思えばまた傷つくことになる、と求めることを恐れるようになった。
それが大人になって、生きてゆくことなんだって。
そう思うと、私にとって苦しいことはつまりすごく悲しいことだった。


ところが最近、もしかするとそれもちょっと違っているのかもしれないと思うようになった。

悲しみの雪が降り積もるその空間には実は扉がついていて、隣の部屋に行くことができる。
その部屋には、あなたが喜んでくれた時に降り注ぐ陽だまりのような心地の良い何かがいっぱいに広がっている。
元いた部屋では悲しみの雪が増えてゆくのかもしれないけれど、突然その部屋同士を繋ぐ扉が開いてふわっと温もりのような風が吹き込み、その部屋の雪を少しだけ溶かしたりもする。

私たちはどの部屋に行くことも出来る。
それで、恐らくその部屋は私が息をし続ける限り増え続けて、それは悲しいことだけれど嬉しいことの時もあって。
だから生きてゆくことは、本当は悲しいことでも嬉しいことでも無いのだと思う。
そこに意味も意義も多分なくて、私たちは寝て食べてただ暮らす。


あなたの笑う顔を見ていると、悲しいと思っていた生きることについて、そんな風にさえ思えてしまうという、ただそれだけのはなし。

本当にただ、それだけのはなし。

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