見出し画像

生まれてきてくれてありがとうと想う人

今日は11月11日。

4、5年前に亡くなった、

母方(インド系マレーシア)の祖父の誕生日。


祖父は私よりずっと前に生まれた人間だから

私が「生まれてきてくれてありがとう」

と言うのはおかしいような気もするけど、

そうとしか言いようがない。


日本の祖父母と違って、

住む家を遺してくれたわけではない。

お金を遺してくれたわけでもない。

それでも、感謝しかない。


グランダディが亡くなった時、

悲しくならなかった。


お葬式の時も、

生きていたグランダディの

面白かった思い出が想起されて

笑いをこらえられなかった。


今だって、グランダディを思い出しても

悲しくはならない。

むしろいまだに家族の間で、

グランダディの面白いネタが出てくる。


悲しくなった時寂しくなった時

ふとグランダディを思い出して

「なんとなく大丈夫」になる。


とにかく面白いおじいちゃんだった。

別にベシャリのこれ(腕を指して)が

凄いわけでもなかったし、

知的なジョークを連発するわけでもなかった。

それでも面白かった。


90歳を超えてもイケメンで

ジェントルマンだったグランダディは

毎週通う教会の若い女性たち

(と言っても60代)

からモテモテだったし、

デイケアでも人気だった。


いっつも考えすぎな、私の頭という

ぷーっと膨れ上がった風船を

突いて一気にしぼませてくれた。

天然すぎるおじいちゃんに

拍子抜けさせられたことが

何度もあった。


私が病んでいて毎日泣いてた時期

「まあ可哀想」と哀れみを示すでもなく

「大丈夫?」と気づかうでもなく

「この子は毎日泣いてるの?変な子だね」

と悪気もなく言ってのけたグランダディ。

あれで一気に私の涙は、大笑いに変わった。


自分の信じる事に対して純粋で、

疑うことを知らなかったグランダディ。

彼の頭の中は、シンプルだった。

神は祈るもので

親子は愛しあうもので

家族は一緒に住むべきものだった。


批判的思考の挟まれない、絶対的な空間。

疑うことや論理的に考えることが

ヨシとされる現代の世の中において

彼の考え方は私にとって、

無条件に心休まる

オアシスのような場所だった。


亡くなった人を想い出す時

その人の霊は一緒にいてくれているらしい。

私はちょいちょいグランダディを想い出すから

いつもグランダディは

私と一緒にいてくれているのだろう。


今は天国で、

愛する妻と両親と、

幸せだろうな。


生まれてきてくれて、

最期の数年を共に過ごしてくれて

ありがとう、グランダディ。


今なお私に寄りそって

ひょうひょうとしてくれている

グランダディ、ありがとう。







私は、文章を書く時、だいたい自分の経験から書きます。したがって、いただいたサポートは、今後も様々な経験をしにいくことに使わせていただきます。