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つよがってるひとたち

わたしは「感受性が強い」という言葉が嫌いだった。理由は、それをいわれてしまってはこちらとしては元も子もないからだ。弱い、というものは強力な武器となりえる。わたしが何か悪いことをしたわけでもないのに、相手が弱いという理由だけで勝手に傷つき、わたしは加害者のような視線を向けられる。冗談じゃない、いつもそう思っていた。

小学生のころからはっきりと自覚していた「理解できないこと」があった。だれかが悲しんでいるのを見たとき、痛がってるのを感じたとき、恥ずかしさを感じているのがわかったとき、なにか手を差し伸べたり、大丈夫、という趣旨の言葉なり行動なりをしない人の多さだ。周りの人が無慈悲だとか悪い奴だとかいいたいわけでも、わたしがいい人だとかいいたいわけでもない。わたしは”そうせざるを得ない”心持ちだったというだけだ。相手がどんな気持ちであるか容易に感じられて同じ気分になってしまう、境界のあいまいな人間。だから自分の痛みを取り除くためにも言っていたのだと思う。そのような経験を何度も繰り返していると、やがて「他人に心配をかけない、マイナスな気持ちにさせない」ような行動をするようになった。「強くふるまう」ようになったのだ。時間が経つつれ、その行動が板につくようになった。何も考えなくてもできるようになり、感情が見えないひと、と揶揄されるまでになった。そうなってから冒頭の言葉がよく目につくようになった。「感受性が強い」「繊細」「傷つきやすい」なにそれ。なにそれなにそれなにそれ。そんな言葉で守られていいの?それ努力の仕方を知らないだけじゃないの?わたしだって、わたしだって傷ついてるんだ...........

そう、このこれらの言葉が鼻につく人たちもみんな、傷ついているんだ。気が付かないだけで、習慣として感じない練習をしすぎてしまっただけで。毎回、モヤッてするたびに、本当はいやだな、つらいな、いたいよ、もう無理、って感じてたの。弱い、という最強の武器をつかう小癪さが許せなかったんだよね。でももうわかったじゃん。もう素直に言っていいんだよ、いま私は痛かったです、って言っていいの。生きてる限りみんな傷つけあうんだから。それで学んでくの。相手のそういう部分も受け入れられるようになるの。あなたのままでいい、ありのままでいい、ってそういうことじゃないかな————————。

どうも〜