イカリソウ(誕生花ss)

 この宿に無意味な逗留をして、もう七日になる。目の前に聳える山を越えればもう、女房が待つ故郷はすぐなのに。
「出立には良い日和ですこと」
 縁側で空を見上げていた私の隣に、宿の女主人が立つ。仄かな梅の香が私の鼻から抜けて、頭の奥を痺れさせるようだ。ちらりと視線をやると、もうだめだった。美しく結われたその長い黒髪が、微かに乱れて肩にかかっている。うっすらと笑みをたたえた口元から、白い歯と、ぞくっとするような赤い舌が覗く。
 そして、その眼。青白い白目の中に、夜の闇より一層深い、底知れない黒さの瞳が私を映している。その闇に捉われたが最後、この宿を発つことなどできない。
「と言っても、お客さんがいらっしゃってからというもの、ずっと出立日和でしたけれど」
 まるで、放つ言葉ひとつひとつが、耳を擽るようだ。その舌が歯列の間から覗くたび、胸の奥をかき回されるようで落ち着かない。熱い湯に浸かりすぎたときのように、身体が火照っているのが分かる。
「お客さん、どうかなさいましたか。熱でもおありかしら」
 女主人の白い手が、私の額に添えられる。触れられた箇所から己が溶け出していくような感覚にうっとりしつつ、おれは自分の口が勝手に動くのを感じた。
「体の調子が良くないようなので、出立は明日に延ばします」
「あら」
 女主人は目を細める。花の綻びるような美しさが、山向こうで待つ女房の姿をかき消してしまう。罪悪感すら、この女の前では甘美な蜜に変わるのだ。
「でしたら、また床のご用意をいたしますわ」
 耳元で囁くこの女は、噂に聞く、あやかしなのかもしれない。男の精気を奪うという、化物なのかもしれない。
 しかし、それでも構わない。甘く美しい蜜に溺れる虫のように、私は今、至極しあわせなのだ。


 花言葉「君を離さない」「あなたを捕らえる」。また、花の生薬としての効果からも着想しました。

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