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自然が全てを教えてくれるー花と四季と人生とー

先日、近所の温泉で仲良くなったおばさん(70歳半ば)から

「英理子さんは古風よね」

という言葉をいただいた。

そのおばさんとはまさに裸の付き合いから始まり、
親と子の年齢差でありながら、
山菜から野菜苗の話、それぞれの家族の話までお話する仲になり、

わたしが現物(野菜や果物)をお届けすると、
おばさんから加工品(お赤飯やら天ぷら、昆布巻きetc)が
返ってくるという間柄になった。

たしかにわたしは古風なのかもしれない。

昔からおじいちゃんおばあちゃんと小さい子が好きな子だった。
好きというより、一緒にいると落ち着くといった方が正しい気もする。

同年代といるとさわさわして、どうにもうまく馴染めていないような、
感覚が違っているようなところがずっとあった。

だから、温泉友達のおばさんといるととても落ち着くのだ。

改めて今の自分の周囲を見渡してみると、
実に年配の方々との関わりが多いことに驚く。

両親(共に70オーバー)
一番のLINE友達(80歳)
冒頭の温泉おばさん(70半ば)
柿の摘蕾作業に来てくれたお手伝いさん(70オーバー)

そうそう、今回のnoteの本題は柿の摘蕾(てきらい)作業を終えて感じたこと
を書きたかったのだった。

ついつい話がすぐにそれて、それた方に広がってしまう。

半月の間、ただひたすらに柿の蕾をひと枝に一つにしていく作業をしていて思ったこと。
70オーバーの皆さんに囲まれ、共に作業した濃密な時間で感じたこと。

花と四季と人生と。

摘蕾が教えてくれること

摘蕾(てきらい)という作業は、“いい柿“を作る上では欠かすことのできない大事な工程。

一本の柿の木は、そのまま放っておけば恐ろしいほどの実をつける。

数えたことはないけれど、一本の木にはおそらく数百の小枝が存在し、
その小枝に3個〜多いと8個くらいの実がついている。

小枝200、蕾(実になるもの)5で計算したとして、
200×5=1000蕾!!

大きな木になると、その数はもっともっと多くなる。

蕾が密集してたくさんあると、柿の木はその全てに栄養を送ろうとするから、
一つ一つは大きくなれず、また隣の柿とぶつかりいい形になれない。

だから摘蕾をして、柿の木の負担を減らし、一個一個が大きくなるように手を施す。

摘蕾期間、約半月の間に小指の先ほどもなかった蕾がみるみる大きくなり、
プチプチもげてたのがポキポキになり、枝との密着も強くなり落としにくくなる。

これがまたチマチマ極まりない、なんとも地味で地道な途方もなく感じられる作業。

ちなみに頭上に伸びる枝を下から見上げ続けていると、首や肩はバキバキにやられる。

一粒一粒、何千何万何十万という蕾を落としてく。


この作業は、これから先も機械やロボットでは担えないのではないかと思えるほど、単純だけど繊細な作業だ。

摘蕾には時期がある。

摘蕾の時期に摘蕾を行わないといけないのだ。
これがズレるとうまくいかない。
微妙に、でも確実に結果(実り)に影響を与える。

そのため人の手がたくさん必要で、この時期はどの柿農家さんもお手伝いさんを頼んで摘蕾を行う場合が多い。

わが実家も然り。

ただ両親含め、お手伝いさんの年齢も高齢になり、なかなか確保が難しいのも現実。

なんだかこれって現代における子育てや教育の問題と同じだなぁと思うのだ。

子育てや教育も子供の発達段階に応じた“適した時期”というものがある。
それがズレると結果に影響を与える。

子育てにおいても人の手がたくさん必要な時期があり、
手間を心を目をかけてあげないといけない時期がある。

価値観や年代の違ういろんな大人たちの中に囲まれないといけない時期がある。

その時期は地味で地道で途方もなく感じられるけど、過ぎてみたらあっという間だったりもするんじゃないだろうか。

摘蕾がないといい柿が育たないように、
こういった時期がないといい人間にはなれない気がするのだ。


花と摘蕾と人生

わが家の柿畑には数種類の薔薇がある。

花好きな母が柿畑に植えれば柿の防除(虫除けの予防薬)が薔薇にもかかり、一石二鳥と考えたらしい。

その薔薇が摘蕾期間中に見事に咲き誇る。
まさに“咲き誇る“という言葉がぴったりなほど香りといい姿といい美しい。

お手伝いさんの1人が
「美しいなぁ〜」と声を弾ませる。

みんながそれに応じて「うん。綺麗だ!」と反応する。

でも、その見事な薔薇も1週間もすれば、花びらに茶色が混じり出し、花全体が垂れるようになり、最後には花びらをハラハラ落として地面に落ちる。

花の寿命は短い。

花が花として咲き、美しい期間は花にもよるがわずかだ。

花が花として美しく咲いている時期は、
人生でいうと30代、40代?といった年代だろうか。

枯れ枝のようだった枝から若芽を出すのが幼少期、
ぐんぐん葉っぱを広げる10代、芳醇な香りを纏いまだ咲く手前の20代、
咲き誇り、あとは枯れて花を落とすけれど、
見えないところで来年のために養分を蓄え、繋ぐ60代以降。

どの時期もどの段階もどの年齢も必要で役割が違う

美しい花を咲かせるためには、その前の準備とその後の終え方が大事なんだ。

薔薇が教えてくれたこと。
花が教えてくれること。

花と摘蕾と人生と。

摘蕾をしながら、薔薇を横目に見ながら、そんな考えが流れていったのだった。

四季と摘蕾と人生

摘蕾の時期、5月半の季節が本当に大好きだ。

青空の下、淡い若葉の葉に囲まれ、
田んぼ用の水路に流れる水の音とどこからともなく聞こえてくる鳥の声。

柿畑の大地に足を乗せ、
そこを身体の中まで通過するように
通り抜けていく風の爽やかさといったらこの上ない。

目や耳に入る青、緑、水、鳥ともに盛夏にはない色や音がする。

初夏の爽やかさは、人間でいう青春期だろうか。

若々しく、瑞々しく、これからぐんぐんと伸びていくエネルギーに満ち溢れている。
この時期、この年代しかないフレッシュな輝き、魔法の魅力が存在しているようだ。

農業に携わるようになって、四季と人生を重ね合わせて考えることが増えた。

3月、まだまだ気温も低く不安定な中、春を感じられた瞬間の嬉しいこと。
柿の枝先がぷっくりふくらみ始め、蕗のとうが顔を出し、水仙が咲き始める。

ただただそれらがそこに存在してくれているだけでなんとも幸せな気持ちにしてくれる。

これは赤ちゃんや小さい子の存在に通じる。
そこに居てくれるだけで周りに幸せを与えてくる。

春が誕生から青春の時期だとすると、夏が青年期40代くらいまで、
秋の実りが50代60代といったところで、冬がそれ以降になるのだろうか。

花と同じく、芽吹き、実らせるためには、冬の休眠、養分を蓄える時期が必要なのだ。

けれど、冬という季節は不可欠でありながら、どこか寂しく切なさを感じるのも確か。
この季節は内なる静エネルギーで、夏のような外に向かった動エネルギーとは全く違う。

静と動。

どちらも必要だけれど、それを生かし切れる季節と年代は違うのだ。

冬に、冬の年代になって動を精一杯発揮することは難しい。
夏に、夏の年代に精一杯動を発揮することが自然なのだ。

両親、お手伝いで来てくれているおかあさん方は、
おそらく人生における冬の時期に突入している。

それを言葉から姿から、動きから感じることがしばしばあった。

今の自分の年代(季節)からは、まだまだ実感を伴った理解は難しいのが正直なところだけど、誰もが平等に辿り着く世界。

春、夏、秋、冬。
春からいきなり冬にならないように、順番がある。

春には春の、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬のよさがあり、魅力があり、役割がある。
人生も同じで、戻ったりワープすることはできない。

だからこそ、今の季節、今の年齢を心から味わい楽しむことが大事なのだ、きっと。

四季が教えてくれること。

四季と摘蕾と人生と。

今の自分の季節にしかできないことがきっとあるのだと思う。


自然が全てを教えてくれる


両親世代と関わり、昔の話を聞いていると、
本当にみなさんパワフルで恐れ入る。

子供を2人3人4人…と育てながら、
朝から晩まで働き、学校行事や地域の集まりとなれば盛り上げ、
その合間で楽しみもちゃんと用意して旅に出て仲間と共に豪快に遊ぶ。

けれど、いちばんすいもあまいもの“すい“を請け負ってきたのがこの年代ではないかとも感じる。

嫁としての役割を担い、両親または義理の両親を看取り、
それでいて自分の子供たちには気を遣い、迷惑をかけたくないという思いが強い。

佐渡という土地柄というのもあるのかもしれないけれど、
この年代の人たちは会社員として勤めながらも海に畑に空いた時間は、
自然の中で仕事を経験した人が大半。

摘蕾作業の合間のおやつ

以前、お手伝いに来てくれていたおじさん(70オーバー)との会話で、
すごく印象に残る言葉があった。

そのおじさんは定年退職したあと、ずっとやりたかった果樹の栽培を始め、
今ではりんごに桃にシャインマスカットにさくらんぼ、柑橘もろもろと
実に多種多様な果物を作られている。

そんなおじさんが
「自然が全てを教えてくれる」と力強く言ったのを今でもよく覚えている。

当時も「うんうん」なんて調子よくわかったような返事をした記憶があるが、
年々その言葉の奥深さが広がっている。

自然は美しく素晴らしい面ばかりではない。
草は伸びるし、竹林は荒れるし、虫さんオンパレードだし、
汚れたり危険だったり、けっして綺麗な仕事とは言い難い。

頑張ってもうまくいかないこともあれば、
摘蕾作業然り、自然相手は何をするにも時間もかかる。
一生懸命手間ひまかけても一瞬で台無しになることもある。

自然には敵わない。

でも、それも含めて大事な教えな気がする。

わたしたちの世代はどんどん自然から離れていってしまったように思う。
その結果、大事なことが見えなくなった、わからなくなったようにも思う。

そして、自然の中に身をおいて、人生と重ね合わせてみたりしていると、
今のわたしの年齢は、いちばん貢献できる歳なんじゃないかと思う。
人に対して、社会に対して、環境に対して、未来に対して。

これまでの知識や経験から得たことを活かし、
何かを始める、生み出すパワーもエネルギーもまだある年代。

これを書いているのは2024年の6月半ば。
あと1週間ほどで夏至を迎えるというタイミング。

これまでぐんぐん日が長くなっていた陽のエネルギーが夏至で極まり、
変わらないように見えても確実に日が短くなる陰のエネルギーに入っていく。

まさに人生の折り返しといった頃合い、40代くらいといったところだろうか。

「四十にして惑わず」と、かつて孔子大先生はおっしゃった。

まだまだ迷うことばかりの我が人生。
でも今、ちょいとやってみたいことがあったりするのだ。

さてさて、ここまで書いていて、読んでもらって恐縮だが、
悟ったようにつらつら綴ったものの、わたしが書いたこれらのことは、
おそらく大地と繋がって生きてきた70オーバーの方々からしたら、

「そんなこっちゃ当たり前!」

と言われてしまうことなのかもしれない。

そんなこんなを考えながらも、ここまで書いてきたのだからと公開しようとしたタイミングで、
なぜか養老先生の動画が目の前にぽっと出てきた。

養老先生もおっしゃっているのだから、きっと間違いないのだろう。






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