大西つねき氏「命の選別」発言について。忘れないために。

大西氏の発言から1年半以上経った今、もう一度「命の選別」発言について書くことにする。

約1年前、この出来事を風化させないという思いで書いた記事をまずどうぞ。

2020年の2月、初めて大西つねき氏の講演を聴いた。
大西氏が述べる「お金はいくらでもつくれる」「日本が貧困なのは経済のしくみが原因」という講演会のメインテーマとなる話は説得力のあるものだった。
信用創造の説明もわかりやすかった。
ミヒャエル・エンデの「モモ」のテーマが底流にあるというのも良かった。
この話が聞けるならと、北広島町でも講演会をやろうと準備を進めることにした。
しかし、5月に予定していた講演は僻地でのコロナ感染による風評被害のリスクを考慮して泣く泣く延期することになった。
その後、次の機会をうかがいながら2020年7月になる。

大西氏によるYOUTUBEチャンネルの動画内で「命、選別しないとだめだと思いますよ」という発言があり炎上。ネットニュースや新聞等でも取り上げられた。
わたしたちはすぐに対談をしている。

講演会を主催する予定だった者として大西つねきの命の選別発言について見解を述べる必要が当然あると考えてのことだった。久しぶりに読みなおすとその時の新鮮な気持ちが蘇り、記録しておいて良かったなと思う。
この時は記者会見前だったため、どういった意思表示をするかを確認するまでジャッジはしませんよ、というスタンスだった。

この件について、もう一度じっくり考えようと思い大西つねき記者会見(本人が読み上げた声明部分のみ)を書き起こした。
しばらくは旧ホームページに全文掲載されていたが、現在はサイトリニューアルと共に削除され、自分が探した限りではどこにも存在しない。
長文ではあるが是非一読いただきたい。
※最後に置いています。

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この書き起こしを読むと、「命の選別」発言についての釈明としては不十分で、言い訳がましく、論点のすり替えも多い。そして全体的に軽薄な内容である。その中からいくつか抜粋する。

「私の(命の選別)発言はあくまでも高齢者に関すること」
と、高齢者に対して命の選別は必要だということをこの記者会見の場で改めて肯定している。
→まず、この一点だけで十分大問題である。

◎お金はいくらでも作れるという大西氏の財源論に沿った経済政策が実行されれば、お金の上限はなくなる。一方で介護従事者の時間と労力は変わらず有限であることから、少子高齢化により将来それらが不足することが想定されるため介護を利用する高齢者の「命の選別」が必要になってくると言う。
→まず、金の上限がなくなり金の心配が無くなれば、安心して子どもを生む人(夫婦)は増えるのではないか。少子高齢化が解消されるという道筋を立てることは可能ではないのか。

◎お金の心配がなくなり、職業全体の給与水準が上がれば「他にも魅力的な仕事がある中、どれだけ介護の仕事に魅力を感じてもらえるのか
→そもそも介護職のほとんどが現状その業務量に見合わぬ低賃金であるにも関わらず、多くの人がその仕事に就いているということ。利用者の生命や健康の維持のため重大な責任がともなう業務について、どれほどの思いと覚悟を持っておられるかという介護従事者のみなさんの意志は完全に無視しており、介護職に対する無理解と偏見がうかがえる。

「私は政治家が命を選別しなければいけないと思わず言ってしまったのは、ー中略ーその代理人の政治家が選別するということです。それで不安を感じるのだとすれば、我々が我々自身を信じていないということになります。民主主義ですから。」
有権者の半数が選挙に行かないという現状を無視している。そもそも選挙に行かない人も当然有権者なので、その人たちのことも考えて政治をしなければいけない。大西氏の政治観を根本から疑う発言。

◎私が命の選別というとても怖いことを連想させる言葉を充分な説明なしに使ったため…
大西氏は「医療的ケアを受けている高齢者の延命についてなんらかの期限を決めるべき」と主張しており、それがすなわち「命の選別」であるという事実は変わらない。なにか漠然とした怖いことを連想しているわけではない。
さらに「言葉遣いがいけなかった」と自身の発言の問題を矮小化している。

「その部分だけが切り取られ、独り歩きしたこともあって、それぞれが自分の体験や知識や考えを通してその言葉を解釈したということです。」
「批判する側の捉え方、考え方に問題があった」「私は優性思想を述べたのではない、優性思想を持つ受け手側の問題」だと言う。政治家を志す者が自らを批判する有権者に対して「あなたたちがいけないのだ」という。

◎「私の発言はあくまでも高齢者に関することで、障害や難病を抱えた方たちに対しては一言も言っていなかったため、…」
→継続的な医療や医療的ケアによって延命している高齢者と、生きていくために継続的な医療や医療的ケアが必須の障害者。両者を考えた時、「何が何でも延命を続けるのではなく」と主張する大西氏の命の選別対象が高齢者のみを指すと考えるのは難しく、木村英子氏が強い危機感を持って大西氏を批判するのは当然。

木村英子氏の声明

もう一つ、荻上チキ氏のnoteを参考のため掲載。
大西つねき氏の発言が優性思想的であるということについての説明がとてもわかりやすい。

私自身、介護職や優性思想の歴史に関する知識はまだまだ浅く、上記の批判内容も拙いところがあるかもしれない。

しかし、財源に余裕があるのなら、介護従事者を増やして交代勤務等で一人ひとりの負担を軽減できるようにできないか。
私ならこう考える。
充分な休息や休暇を取りながら働ける社会の仕組みを作って、誰でも福祉を利用できるようにしよう。
私ならこう言う。
素人考えだとバカにされるだろうか。甘いと言われるだろうか。

年をとって、もし病気になったら「この人いつまで生きてるんだろう」と思われる社会。
子どもたちにはそんな未来を生きて欲しくない。
子どもたちに「高齢になって医療を受け続けることになったら命の選別をされる」と説明する日が来るかもしれない。
そんなの、控えめに言って地獄だ。

命の選別を選択肢から排除することが政治家の役目ではないのか。
少なくとも自分はそういう政治家を支持する。

歯に衣着せぬ物言い、の様な態度を大西氏の支持者は気に入っているのかもしれない。その行為が大西氏の思想の実践の1つであるならば、その思想は想像以上に幼稚で時代遅れだ。
あの記者会見をちゃんと聞いていれば、わかるはずだった。
どんなに応援する人でも、尊敬する人でも、立派だと思っている人でも、間違いをする。その間違いが人権を全否定するものであれば「それは違う」と声を上げなければいけない。
大西つねきを支持者を喜ばせるだけの政治家にするな。支持者こそが監視し、時に叱咤し、押し上げていく存在であるべきなのだ。
しかし、私の知る限り大西氏の支持者からそのような声はついに聞かれなかった。
彼は今も、支持者が主催する講演会で持論を展開する。
まるで「命の選別」発言など最初からなかったかのように。

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大西つねき記者会見 書き起こし

この度、私大西つねきはれいわ新選組を除籍されました。つきましては、その発端となった発言とその後の経緯、今後についてお話します。
えーまずは問題になった私の7月3日の自身の動画チャンネルにおける発言について説明させていただきます。えー私の発言の真意は次のようなものです。えーこれから少子高齢化が加速し、要介護者が遠からず1000万人を超えると言われている中、介護従事者の倍増は急務です。えーしかし現状はお金の問題、つまり間違った財源論が原因で介護従事者の給与も安く十分な従事者を確保できない状態になっています。だからこそ、私はこの間違えた財源論による緊縮財政の呪いを打破するためにれいわ新選組の構成員として活動してきました。しかしこれは、本質的にはお金の問題ではありません。もしわれわれが主張していたように財源論の思い込みが外れ、お金がいくらでも作れることが理解されれば、上限はお金ではなく、それで動かせる時間と労力という実態リソースの有限性になります。
少子高齢化で人口バランスがとてもいびつになる中、果たして十分な人材を確保できるのかどうか、また、お金の問題をクリアしたとしても、その時には他の仕事の給与水準も上がっています。他にも魅力的な仕事がある中、どれだけ介護の仕事に魅力を感じてもらえるのか。えーもし、日本人労働者が足りなければ、海外労働者の受け入れ、または、AIやロボットによる介護の選択肢もあるかもしれませんが、それでも結局はそれも含めた総労働力の配分となり、介護以外にも食料・エネルギーの自給や一定の外貨の確保その他皆さんの生活に必要なあらゆる仕事がある中でどこにどれだけ配分するかというのは一面だけを見て決められない難しい国家経営上の決断になります。私は必ずしも悲観的ではありませんが、人の気持ちと未来はわかりません。もしかしたら我々は苦渋の選択を迫られるかもしれない。その可能性を100%否定できるでしょうか。もし出来ないのなら我々はそれについて考えておかなければならないと思います。その時に我々はどうするのか。ただ何もせず現場と当事者に押し付け続けるのか。何かするのであれば、どんな考えに従って、なにをどう行えばいいのか。
もちろん生産性や能力、ましてやナチスドイツが行った人種による選別などとんでもないと思います。えーわたくしはそんなことは一言も言ってはおりません。むしろ反射的にそんなことを連想する方が私は差別と偏見に満ちていると思います。何故ならそこにはご高齢者イコール生産性の低い人という決めつけが見てとれるからです。私はそもそも人を生産性で測れるとは全く思っていません。むしろ生産性、つまり短期的にお金を生み出す能力で序列を生み出すしくみが今の金融システムであり、だからそれを変えようともう10年近く活動してきたことは私の著作や動画を見れば簡単にわかると思います。えー、私はどうしても何らかの方策が必要なのであれば、高齢になれば死が近づくという自然の摂理に従って考えるべきだと言っています。もちろんこれはただ年齢で分けるような単純な話ではなく、むしろ間違った財源論の問題を解決すれば年金も十分払えるわけですから、好きなだけ健康で長生きしていただいて、最後に病気になられた時に何が何でも延命を続けるのではなく、医師のアドバイスに基づいて延命中止のなんらかのルールを作るとか、最後の出口を少しだけ緩めるということです。今はまず延命措置が必要ですから、ご本人の意思がわからないままご家族がその責を負ったりご家族同士が一致しなかったり、無理な延命で尊厳を失ったりと、既に色々な問題があるはずです。それを少しだけ自然の摂理にしたがって緩和する必要があるのではないかという話です。
もう一つ今回の発言に至った背景をご説明すると、新型コロナの影響です。世界的に重症化リスクはご高齢者に特に高いというデータが出てきてる中で、若い世代へのしわ寄せがかなり大きいと感じています。えー緊急事態宣言は解除されましたが、新しい生活様式は我々の生活を一変させています。特に子どもたちの生活はかなり制限されていて屋外で遊ぶことも、友達とお喋りすることも制限される例も聞いています。子どもたちの命を守る、クラスターを防ぐなどの意見もわかりますが、本当にこれで良いのでしょうか。例えば、ご心配なご高齢者には外出を控えていただき、生活に必要なスーパーなどでのご高齢者タイムゾーンを設けるとか、ご高齢者施設の対策を強化するなどしてその他は通常の生活様式に戻すというような案は考えられないでしょうか。それによって確かに感染者数も増え、結果的にご高齢の死亡者数は増えるかもしれません。それは命の選別だから駄目だと言われるかもしれません。しかし、このままいけば膨大な数の経営破綻と失業者を生み、もしかしたらその中で失われてしまう命は新しい生活様式によって選別されていないんでしょうか。また仮に死を迎えなくても、子どもたちをはじめ今を大切に生きる人たちの時間も命です。その人たちの時間の過ごし方も命の問題なのではないでしょうか。私は政治家が命を選別しなければいけないと思わず言ってしまったのは、このように命の選別になりかねない考えも恐れず発信し、場合によってはそれに賛同する人々の負託を受けて、代理人として実行する仕事であるということです。それを政治家が尻込みして、他に誰ができるのかという話です。
えーそもそも全ての政治決断は命に直結します。何に予算をどれだけ組むか、それによって制度の内と外が生まれ、制度に救われない可能性の人がでます。どんな医薬品、農薬、添加物を認可するかによって命の長さや質が変わります。またどんな経済政策を取るかによって、国民の資産が例えば他国の軍費となり、たくさんの人を殺すかもしれない。朝鮮戦争やベトナム戦争で日本の基地から出撃した米軍がどれだけの人を殺したのでしょう。つまりその影響範囲と時間軸を短く狭く取るから見えないだけで、政治家の決断は結果的に命の選別になる、そういう仕事であるとはっきり自覚してやるべきだということです。もっと言うと皆さん一人ひとりの行動も命に直結します。このようにゼロリスクはありませんから、車に乗るにも、飛行機に乗るにも、外を歩くにも命は掛かっています。我々が海外から食料や衣服を安く買い続けた結果、児童労働で海外の子どもたちの命が脅かされ、バングラデシュの縫製工場の悲惨な事故で命が奪われたりもします。食肉文化によって絶滅危惧種の動物を守りながら、別の動物の命を選別していたりもします。つまり我々は少しずつ命の危険を晒し他の人や動物の命を脅かしながら自分の時間、すなわち命を削りながら生きています。それが我々の生活のリアルであり、その相関性や複雑性が見えてきたら、どんなリスクを取ってどんなリスクは取らないのか、その取捨選択も冷静にできるようになる。そうすれば、このコロナのようなことが起きた時も、取捨選択の話ができるようになり、最終的に自分たちで自分たちの生き方死に方を決めることができる。皆さんが選別する。ということはその代理人の政治家が選別するということです。それで不安を感じるのだとすれば、我々が我々自身を信じていないということになります。民主主義ですから。えー今回の発言はそういった意味も含んでいます。
以上、あまりにも不適切で説明不足だったため、えー本当に改めてごせつせ…えー申し訳ございませんでした。えー改めてご説明いたしました。

えー次に、れいわ新選組から除籍を受けるまでの経緯について説明します。えー私が問題の動画をYouTubeライブで配信したのは7月3日の8時、午後8時からです。えー当初は特に反響はありませんでした。えー多くの方々が多分元々私のチャンネルの視聴者だったため、言葉が悪くても真意が伝わったせいだと思いますが、私がそれに甘え、丁寧な説明を怠ったために、その一部だけが切り取られ、拡散されて騒ぎになりました。えー、これを受けて7月7日に党本部から呼び出しがあり、代表と面談しました。えー私はきちんと説明したい意を伝えましたが、何を言っても言い訳になると、これは除名か、謝罪、撤回しかないとのことで、私は謝罪と撤回を選びました。えー同時に元の動画に関しても公開停止にした方が良いという党の意見を受け入れて非公開にしました。いずれも、その時はその方が良いとの私の判断でした。えーその後帰宅してから謝罪文を書き、それを党に提出して、事務局のご意見をいただき、それに従って修正を加えた後に公開しました。翌8日、党の方から生命倫理の先生のレクチャーを受けていただくとの連絡を受け、スケジュール調整を行い、最終的に7月13、14、15の三日間のスケジュールが組まれ、13日が京都で行われる予定だったので私は12日の関西公演の後ホテルにて宿泊待機しておりました。しかし、12日の夜に中止の連絡が来たため、翌日に帰宅後14,15のレクチャーだけに参加しました。えーレクチャーの内容は、14日がれいわ新選組の木村英子さんと当事者の方々とのお話。15日は難病を抱えた当事者の方との対話でした。いずれも有意義な時間だったと思いますが、私の発言はあくまでも高齢者に関することで、障害や難病を抱えた方たちに対しては一言も言っていなかったため、これらを以て党が何を意図したかは不明です。恐らく命の大切さについて私に教育してくださろうとしたんだろうと思いますが、私はこの流れでれいわ新選組に残ることは出来ないと思いました。えーなぜなら私の思想に問題があり、それを2回のレクチャーという教育によって矯正し、人は変われるという所を見せて再出発というシナリオに思えたからです。おそらく代表は私にチャンスを与えるおつもりとして考えてくださったのだと思いますが、私の思想が本当に党が判断したようなものかどうか、私の他の動画や著作、さらには講演会に足を運べばすぐに分かってしまいます。最初からその前提が真実では無いと私自身が思う中でそれに乗ってしまっては、私が自分自身に嘘をつくことになります。したがって、私は総会の前日、えー15日のレクチャーが終わった時点で代表に離党の意を伝え、離党届を提出しようとしましたが、受理されませんでした。そして翌16日、改めて総会に離党届を持って参加しましたが、最終的には除籍という結果に終わりました。えーれいわ新選組には一年前からお世話になり、代表の山本太郎氏には感謝しかありません。えー党と代表の今後の発展と活躍をお祈りしたいと思います。

えー次に、既に昨日の代表会見で明らかになった通り、謝罪を撤回した件に関してお話します。
えー批判はされるでしょうが、えーこれは敢えて自分の身を晒しての皆さんへの問いかけです。確かに今回私は政治家にはあるまじき言葉遣いをし、それによって恐怖や不快な思いを感じられた方がたくさんいらっしゃったことはよくわかります。その点については深く反省し、今後最新の注意を払いたいと、これは本気で思っています。ただ、起きたことを整理させていただくと、私が命の選別というとても怖いことを連想させる言葉を充分な説明なしに使ったため、その部分だけが切り取られ、独り歩きしたこともあって、それぞれが自分の体験や知識や考えを通してその言葉を解釈したということです。えー場合によっては私が全く言っていないことも含め、拡大解釈されました。世の中はそういうもので、だから政治家は言葉を丁寧に扱わなければならない、それは今回私も十分学びましたが、私は敢えてそういう世の中に問うてみようと思います。言葉はそもそも考えを伝えるためのものです。つまり言葉がただ存在するのではなく、その言葉を発する人間がいて、その考えや思いを通じ合う為に存在します。ですから、本質は人、言葉を発する人とその考えであり、言葉を受け取るということはその人とその考えを理解しようとすることです。もしあの切り取られた言葉を受け取った人たちが、その本質に従って理解しようとしたならば、おそらく言葉が足りないと感じたと思います。そしてきちんと理解しようと思ったら、おそらく説明を求めます。実際、私のところには説明を求める声がいくつも届きました。それは極めて理にかなった反応だと思いますが、私が今日まで説明しなかったのは、党からレクチャーが終わるまで発信をしないよう要望が来ていて、それを尊重することに私が決めたからです。えーただほとんどの人が、これは決して駄目というわけではないんですが、その言葉だけで判断し、反応しました。なんとあの朝日新聞までがこれを報じてくれました。もし朝日新聞が言葉の本質に従って真実を報道しようとしたなら、おそらく私に取材してその真意を確かめたでしょう。しかし実際はそれもなく、ただ切り取られた言葉だけを取って報道されました。おかげさまで、さらに多くの人がそのことだけで判断し反応し、騒ぎが拡大しました。しかし繰り返しになりますが、私はそれも否定しません。それが私の考えや私自身とかけ離れたとしても、人は判断したいように判断し、反応したいように反応します。それは自由です。そしてそこで生まれた感情も完全にその人のものです。どう感じても良いし、どう思っても良い。ただし、それがその人のものである限り、それは誰か他の人のせいにするというのは違うと思います。言葉がそう感じさせるのではなく、言葉を受け取った本人が自分で感じるものだからです。逆にそれが仮になんらかの制約、強制で自分だけのものでなくなったらどうでしょう。自分の感情をコントロールされたいでしょうか。そういった意味で私は実は謝罪もコントロールだと思います。自分がした行為で相手が持った感情を和らげようとするものですから、それは善意であり、私もそうしたい時はそうします。しかし、今回は敢えてしないという選択をしました。直接誰かに何かを言って発生した感情ならともかく、ほんの一言だけ切り取られ、言ってもいないことまで拡大解釈され、それぞれの自由意思で持った感情にまで私が謝罪したら自由の境界線がズレてしまいます。そしてそのまま世間はそれを当然と思ったまま終わってしまうと思ったからです。言うも自由、感じるも自由。そこで自他の自由の切り分けをしないと忖度だらけで耳障りな良いこと、一見正しいことしか言えなくなってしまいます。
えーそれからもう一つ、謝罪を撤回した理由があります。それが、それは私が優性思想を持ち出して非難されたことです。私にそんな考えは毛頭ないし、そもそも言ってもいないことは置いておいたとしても、その批判そのものが私には優性思想に基づいているように感じられました。そもそも優性思想が問題なのは本来的に人間には優劣など無いみんな違っていてもそのままで生きていいはずなのに、例えば生産性のような一元的な物差しで優劣をはかり、それで差別するからではないんでしょうか。みんな違っていても不当な不利益を被る事なくそのままで生きられる社会を望んでるのなら、なぜ私に対して、「おまえは間違っている」「変われ」「考えを改めろ」と言って私の考えを攻撃し、社会的制裁を加えようとしたのでしょう。私の考えがどんなものであっても、そもそもあまり理解されていないかもしれませんが、私は私のままで生きていてはいけないんでしょうか。自分たちが正しいから、正しくない考えは粛清される。優劣が正誤に変わっただけで、優性思想と根っこは同じに見えます。もし私がこれを認めてしまったら、常識を外れた異端の考えの人たちは皆粛清されます。その中にこそ、時代を変える種があるかもしれないのに、そもそも人に優劣など無いのにこの世に正しい正しくないも無いと思います。すべては主観です。正しさはそれぞれの心の中に持っておけばいいですが、それを持ち出して振りまわせば、他の正しさとの闘いになります。そんなことをしていては1mmも前には進みません。私は自分の正しさを主張して戦うつもりはありません。それは一人ひとりが自分で決めればいい。一方で、自分の考えに従って、自分であり続けることは辞めません。それを辞めてしまったら私は自分は生きていることにはならないと思いますから。えーまた多くの人がこのように、たった一言で判断し、単純な正しさに乗っかって人を叩いているようでは、次第にものが言えない社会になります。思考は言葉で作られますから、言葉が制限させるようになれば、思考も制限されます。使ってはいけない言葉や、言ってはいけないことは、触れてはいけないことになり考えてはいけないことになる。そして思考停止すれば、向き合うべき真実と向き合えなくなります。だから今回私は敢えて批判覚悟でつっぱることにしました。また戦えると思いますが、出来ればお手柔らかにお願いします。

さて、最後に今後について話します。
私は今回の一連の出来事を通じて、この国に一番必要なものが分かった気がします。それは真実と自由と自立です。私たちは小さな間違いや他人の反応を気にして言いたいこともやりたいことも制限して生きているように見えます。それがもしかしたら自分を絶対的に承認できず、その評価を人に頼っているからかもしれません。また、人が人を評価する、比べるという行為があまりにも当たり前に社会を覆い、えー誰か一人ひとりがそれに適応して優越感を感じているかもしれません。いずれにしても自由では無いように思います。自立という意味でも私たちはどっかで、どこか人任せではないでしょうか。政治家が命の選別などとんでもないと言いながら、実際に苦渋の決断を迫られた時、政治家になんとかしろとは言わないでしょうか。憲法9条で軍事力の保持を禁止し、国の為に戦う、という人が10%しかいないというアンケート結果が出る中、自衛隊と在日米軍を容認してるのは本来我々が自立して向き合わなければならない問題に向き合っていないからではないでしょうか。我々はもっと自由で自立して、タブーなくなんでも言え、聞けるようになって初めて、エー真実に、不都合な真実にも向き合うことができるのではないでしょうか。今回の死の問題だけではなく、我々がタブー視して触れない問題、向き合わない問題がたくさんあります。それは例えば今言った在日米軍の問題。何故戦後75年も経って、未だに占領軍を駐留させ、それをほとんど沖縄に押し付け東京の制空権も奪われたままなんの疑問もなくいられるのでしょう。日米安保で日本が守られているからでしょうか。頼りにしているその占領軍は、広島長崎に原爆を落とし、たくさんの一般市民の大量殺戮を行った巨大な暴力装置です。その暴力に怯え、暴力に頼るということでしょうか。その日米安保を通すために、CIAは戦前から政権の中枢にいたA級戦犯の岸信介、これは今の安倍首相のおじいさんですが、彼を釈放して資金提供をして自民党作らせ、それがずっと日本を統治し続けていることは周知の事実です。これに対してなぜ誰もなにも言わないのでしょう。そろそろ、本当のこと、つまりこの国は全く独立などしていないという真実にしっかりと向き合うべきではないんでしょうか。その問題に向き合わない限りは政権交代しても意味があるんでしょうか。それからもう一つ、あの戦争を起こした時の最高責任者、昭和天皇はなぜ全く責任を取らなかったのでしょう。彼は後に、広島に原爆を落とされたことに関して、戦争中だったから致し方無かったというような発言をしました。YouTubeでも見られるのもしご興味があったらご覧になっていただきたいと思います。なぜ誰もおかしいと言わなかったのか、特に、政治家のみなさんは言えないんでしょうか。戦後75年、我々はずっとこの問題に蓋をし続けてきました。でも、もう限界なのではないですか、そろそろ本当のことを本気で話しませんか。私は今後の政治活動を続けます。なぜなら、みんなが思っていても中々言えない本当のことを言う政治家が必要だと思うからです。えーもうすぐ衆議院選挙があります。おそらく11月25日と言われています。えーその時には私は新しい旗を立てて、闘いたいと思います。それは真実と自由と自立の旗、もし本気でこの国を一切のタブー無しに本気で立て直したい方はぜひ力を貸してほしいと思います。特に現職国会議員の皆様、えーこんな他党を除籍された政治家の元に来てくれる議員先生は中々いないかもしれませんが、えー今の与野党茶番劇に飽き飽きしていて、無所属でも、離党でもなんでも良いですから真実の政治がやりたいという方がいらっしゃったらぜひ、ご連絡ください。えーまた支持者の方々の中で、この会見をご覧になって大西つねきとやったら面白いんじゃないかと思った方は支持されている先生に口説いてみてください。まぁかなりの無理筋だと思いますが、もし5人も集まろうものならいきなり国政政党です。かなり面白い戦いができるかもしれません。ま、そうでなくても、私はなんらかの方法で次の衆議院には挑戦したいと思っておりますので、お力をお貸しいただける方はぜひよろしくお願いしたいと思います。以上で私の会見は、声明は終わります。

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