映画感想文「ミッシング」

映画「ミッシング」を見た。主演・石原さとみが雑誌のインタビューで「女優として殻を破いた作品となった」と言っていたので興味があった。わたしは子どもがいないから、ほんとうに共感できたかといえばわからない。でも無事に見つかって欲しいと願ったし、ボロボロになるまでの夫婦の心を描いた作品に胸がずっと苦しかった。

※この先ネタバレがあります

2ヶ月前に娘が誘拐された。娘を探すために地方テレビ局の取材を受ける夫婦。自宅でインタビューに応じたり、ビラ配りの姿を撮ったりする中で、ディレクターから演技指導や演出案が出される。娘の誕生日の数日前にも関わらず、番組で使うからという理由で前祝い(?)するシーンには、「やらせじゃん」と思ったし、劇中の父親役も「これはやりすぎでは…?」と呟く。しかし、世間に同情をしてもらえないと同じ「温度感」で探してもらえないのだ。だから、多少の演出も必要だった。「温度感」の話でいうと、夫婦の娘を探したい気持ちの温度感の差も指摘されていた。娘を探し出したいという夫婦の向いてる矛先は同じなのに、温度感が違う。「なぜ平気でいられるの?」平気なわけではない。でも、娘が見つからないといって、すべての生活を止めるわけにはいかない。家賃も払わなくちゃならないし、税金だって納めなくちゃならない。そのためには働かなくちゃいけなくて、いつまでも娘を探すことだけに全集中はしていられない。生きなくてはならない。

テレビ局ディレクターの砂田は、事件を通して「テレビの報道」に違和感を感じる。どんな事件も「おもしろく」して、「世間の注目」がないと視聴率が取れない。数字を取りたい上層部と事件の解決をのぞむ一社員の、事件に対しての意識のズレが見える。誰かを陥れるための報道ではない。では自分が報道したいものとは何か。事件を追う中で、ある真実が見つかるが、それを報道することで傷つく人がいる。しかし事実を良いように隠すことは「事実を報道する」に反することではないのか。どんなことにもフラットに、とはどういうことなのか。

誘拐事件から2年経った。娘は見つからないままだ。ささいな情報にもすがり、誹謗中傷を受け、誰かを責めていないと気持ちが保てない。悲しみや痛み、苦しみ、あの日こうしていれば、あの時こうしていればという後悔が常につきまとう。それでも、生きなくてはならない。諦めとはまた違う、「整理」と呼ぶべきか。ハッピーエンドで終わって欲しかったけれど、これが現実的なのかもしれないとも思う。

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