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ライオン

俺の名前は佐藤旭。嫌いじゃないけど普通の名前。顔は普通。学力も普通。運動は少しできるくらいの平々凡々とした一般人。
俺には玲央という二歳上の兄がいる。俺とは違ってかっこいい名前で、顔良し、性格良し、学力・運動良しと三拍子も四拍子も揃っているもんだからそりゃあモテたし、何かといえば賞をとったりリーダーになったりしていたので親や先生から褒められてばかりいた。子供の頃「幸運の神様」という昔話を読んで今でも記憶に残っているが、もしそんな神様が本当にいたのなら、幸運というものは玲央に与えられていたのだろう。少なくともどんなに頑張っても玲央の影に隠れてしまう俺には与えられていなかった。
今の時代「兄に比べて弟は」なんて露骨な言い方をするやつはいなかったが、周囲の期待や注目がおのずと兄に向けられていることは口に出さなくとも幼心に十分感じ取れた。そんな兄は俺に対しても優しくて、嫌いになれないところも嫌だった。完璧すぎるその存在を前に、ぶつける先すらないもやもやとした気持ちを抱えながら、俺が玲央だったらと思わない日はなかった。

どうしても玲央より注目されたかった俺は、十二歳でアイドルになることを決め、芸能事務所に入った。玲央は街を歩けばスカウトに声をかけられることも度々あったが、本人にその気がまったくなく「俺はそんなすごくないから」と困った顔ですべて断っていた。そしてそれを親が残念そうにしているのも知っていた。自分の子どもがスカウトされて親の方がその気になるなんてよくある話だ。だから俺がアイドルになりたいと言った時も親は乗り気だった。もしかしたら弟の影響で兄も興味を持ってくれるかもという期待があったのかもしれない。とにかく玲央や周囲を見返すにはこれしかないと俺は本気で考えていたのだ。そんな決意をよそに、玲央はニコニコしながら「俺が旭のファン一号になるね」と言った。今に見ていろと思った。

アイドルになると決めたものの、玲央とは違って俺に特別な才能はなかったから、ダンスや歌は人一倍努力をして認められるしかなかった。レッスンは誰よりも真剣に取り組んだし、少しでも時間があれば自主練を繰り返した。それだけじゃない。流行りのメイクやファッション、笑顔、写真の写り方も研究し、中学を卒業する頃には顔も整形した。玲央をこえられないようじゃアイドルになんかなれないと思ったからだ。整形に関してはさすがの親もそのままの顔で十分だと反対したが、お金は必ず返すからと押し切った。玲央は心配そうにしていたが、旭が本気ならと何も言わなかった。

オーディションなんかで周りを見渡して見ると、俺と同じくアイドルを目指そうとする奴らは、まだ芋くさいやつもいれば、すでにダンスや歌で頭角を現してるやつもいた。だが俺にしてみればどいつもこいつも玲央に比べたら大したことなく見えた。

練習では当然辛いことも多かった。難しいダンスを夜中まで繰り返し練習するのは地味な作業だったし、体型の維持に食べる物にも気を遣った。ボイストレーニングをし、歌詞を覚え、ファンを増やすための宣伝活動としてSNSや動画の投稿を毎日行うそんな日々。だけど普通に進学した玲央とは違う、特別な世界にいるという優越感は俺に自信を持たせてくれたし、兄と比べられない環境にいることでようやく自由になれた気がした。地道な努力が実を結んで、練習生から先輩のバックダンサーをやるようになり、徐々にステージに上がる頻度が多くなってくるとアイドル活動はより楽しく思えた。先輩のカバー曲であっても、ステージで初めて歌った時の高揚感は忘れない。

アイドルをしていると言うと、すごいとか、かっこいいとか言いつつ、好奇の目で見てくるやつも少なくない。職業としては特殊な部類なのでそれ自体は構わないが、中には「よく大衆の前で恥ずかしげもなくパフォーマンスなんてできるよな、俺には無理」とか「そういう派手なことができるのは最初からイケてる人間だけ」などと、卑屈になって見下してくるやつもいる。俺にしてみれば素を晒して毎日を生きているやつの方がどうかしていると思う。
アイドルとか、俳優あるいは芸人やバンドマンなんかもそうかもしれないが、役になりきったり、仕事上での自分は素の自分とは別人だと思い込むから、ステージに上がることができる。注目を浴びたい、認められたい、モテたいなどの承認欲求を素の自分で発散できないから、自分の中に別人を作って人前に出ていくんだ。日常でド派手な衣装を着てるやつ、歯の浮くセリフを言ったりするやつはそういう職業になってないと思う。わざわざ仕事という皮をかぶらなくても良いからだ。だけど現実にはありのままの自分だけで愛されてるアイドルなんか一人もいない。笑顔の裏には努力も悔しさも辛いこともたくさん詰まってる。それを見せないようにしてるだけ。

そんな努力の甲斐あってか、俺は十七歳で五人組男性アイドルグループ「ビースト」のリーダー、レオとしてデビューすることが決まった。レオはもちろん俺がつけた芸名。玲央を食ってやりたくてつけた名前。俺はデビューが嬉しくて、今まで以上に精一杯アイドルのレオを演じてみせた。

ビーストはすぐに大人気グループへと成長していった。当然ファンも大勢ついたし、メディアでその姿を見ない日はない。楽曲はドラマの主題歌となり、CDは発売前から話題。ライブに冠番組に雑誌の特集。練習、打ち合わせ、撮影とせわしない日々はすべてレオとして埋まっていき、街頭ビジョンや看板で街はビーストの顔で染まっていった。
周囲を見返してやるという当初の目的は十分達成されたと思う。周りの友達はもちろん、親戚も、親も、俺がレオであることを自慢にしていたし、玲央より俺を見てくれていると実感できた。
「俺が玲央だったら良かったのに」という幼少期に何千回も心の中で唱えた言葉を思い出す。あの頃どうやってもなれなかった存在に、ようやく俺はなれたんだ。レオになることで、顔も、名前も、脚光も、玲央にあったものは今全部俺のものになった。だけどその代償を俺は考えていなかったんだ。

偶像となった俺は常に理想の存在でなければならなくなった。レオでいれば世間はもてはやしてくれるが、旭の俺には興味がなかった。レオらしい振る舞いが求められ、そうでない振る舞いをすれば幻滅される。それでも幸いだったのは「完璧であるレオらしさ」が何なのかで悩むことはなかったことだ。手本になる存在がすぐそこにいるから、俺はそれを真似すれば良かった。
そう。いつだって必要とされているのはレオであって俺じゃない。レオが成功すればするほど、レオという存在と佐藤旭という存在が乖離していき、どんどん別人のようになっていった。
レオでいなければいけないのに、旭でいたい。
自分でも整理できないそんなジレンマを抱え続けていた頃にそれは起こった。

久しぶりのオフの日、疲れていたこともあって自宅でぼんやりと雑誌を眺めていた。ビーストが表紙を飾るその雑誌は、二十ページもビースト特集が組まれていて、さらにその内の六ページは丸々レオだけに使われている。いくつかの笑顔のショットと、レオの魅力と題されたロングインタビュー。何が好きで、最近は何にはまっていて、活動への意気込みはこうで、最後にはファンへ向けての愛あるメッセージ。そんな文章を指でなぞりながら、雑誌に視線を向けたまま何の気なしに近くにいた玲央に声をかけた。
「兄貴はいつも注目されててすげーな」
「え? 俺が?」
 あまりにもすっとんきょうな声で返ってきたので、おかしくなって顔を上げると、ちょうどコーヒーを飲もうとしていた玲央は顔をもきょとんとさせていた。
「なんでそんなに驚いてるんだよ。だってほら、表紙とビースト特集っていうだけでもすごいのに、レオ単体で六ページもあるんだぜ? 最近はCMだってばんばん流れるし、兄貴の顔見ないで生活する方が難しいだろ」
俺は雑誌のレオを見せながら笑ったが、話をふられた兄は固まったような顔で俺を見ていた。
「……旭?」
「え?」
「何言ってんだよ。これはお前だろ。ビーストのレオは旭だろ」
心配そうに言われて動揺する。玲央の言ってることがわからず、雑誌の写真に目を落とすが、どう見ても玲央だ。インタビューの内容だって、俺のことじゃない。好きなものも、はまってるものも俺とは違う。これは玲央のことだろ?
「兄貴こそ何言ってんだよ。俺はこんな顔じゃない」
軽く笑ってかわそうとしたが、玲央は真剣な顔で黙って俺を見ている。少し悲しそうにも見えた。
「よく見ろ」
テーブルに置いてあったスマートフォンを俺に向ける。何も表示されてない黒い画面は鏡のように俺の顔を映し出し、そこにある玲央そっくりの顔と目が合う。途端に血の気が引き、我に返った。俺がレオだろ。玲央じゃない、当たり前だ。それなのに俺は今なんて言った?

昔から俺は自我が薄れて他人との境界線が曖昧になるという経験を何度もしてきた。自分で自分の存在を確かめられなくなるほど低かった自己肯定感のせいかもしれない。
ある時々で勝手に起こるそれは、電車で乗り合わせただけの見ず知らずの他人にでさえ「なぜ俺はあの人ではないのだろう。俺はあの人だったかもしれないのに」という、ふわっと自分の魂が抜けてそのまま相手に乗り移れてしまいそうな感覚だった。
そしてその自我の揺らぎは、いつの間にか俺自身が作り出したレオに対しても起きていた。レオでいなければならない時、旭の魂が乗り移って完全に別の存在として生きている。他人であれば乗り移るなんていうことは俺の感覚の話でしかないが、レオは俺の中に作り出した空の器だ。完璧なレオでいなければ。そう思えば思うほどレオは佐藤旭ではなく、もう一人の玲央となっていき、アイドル活動が忙しくなると、レオでいる時間はどんどん増えていった。
テレビ、雑誌、CM、CDジャケット、街中に溢れる彼は誰だ?
スマートフォンの画面に反射した自分の顔。そこに映るのは佐藤旭じゃない。レオでも玲央でもない。ただの「玲央の偽物」だ。そう自覚した瞬間、急に自分の存在が気持ち悪くなった。いつの間にか誰にもなれなくなっていたことに愕然とした。
俺は一体誰なんだろう。何になりたかったんだろう。なんで俺は俺でいられなかったんだろう。
向けられたスマートフォンを思わず払いのける。

レオの存在が大きくなればなるほど、世間から玲央の存在は消えていくと信じていた。玲央に成り代わって、今度は俺が認められる番だって。だけど本当に消えていったのは、俺だったんだ。
レオになるという自己実現は、いつの間にか佐藤旭という人物を消し去る自傷行為に変わっていた。もしかしたら最初からそうだったのかもしれない。ずっと頭の片隅で気付いていながら止められなかった。

捨てられてしまったのは玲央じゃなくて旭の方。旭の存在を捨ててしまったのは俺自身。

決壊したダムみたいにぐちゃぐちゃな感情が脳と心に押し寄せてくる。それに押しつぶされそうになる俺は息をするのに精一杯だった。頭を掻きむしって、うまく言葉にならない声を出す。苦しくて涙が出る。

「旭!」
玲央は過呼吸になってる俺の腕を掴み、椅子に座らせる。まるで溺れているかのような息苦しさと動悸でパニックになる俺にゆっくり息を吐かせ、まともに息ができるようになるまで背中をさすっていた。
しばらくしてようやく落ち着くと、玲央は少しほっとした表情をした。コップに水を入れ、俺に渡すと「旭は、かはたれ時って知ってる?」と聞いた。頭が働かない俺は無言で首を振る。冷たい水が喉を通り、少しだけすっきりする。
「彼は誰と書いてかはたれって読むんだけどね。顔がはっきりと分からず、あれは誰か分からないような、はっきりものの区別がつかない薄暗い時間のことを言うんだよ。それはね、夕暮れ時をたそがれと言うのに対して、明け方のことをそう呼ぶの」
玲央が俺の目を見て言う。
「だから忘れないで。彼は誰時のように自分を見失う時があっても、夜が明ければ朝日が差し込んで、ちゃんと自分を見つけられる。旭っていうのは、そういうすごい名前だから」

憧れと嫉妬がないまぜになったまま、いつまで経っても感情を整理できないガキな俺。ずっと玲央になりたくて、俺はその背中ばかり追いかけていた。どれだけファンや世間がちやほやしようと、玲央の芝生ばかりが青く見えて仕方がない。今はただの大学生である兄に、どうやってもたどり着けない。努力して歌が歌えるようになっても、練習してダンスができるようになっても、観客がいるステージに立っても、名前を同じにしても、整形して顔を近づけても。真似したり、喚いたりしながらみっともなくもがく俺を、玲央は分かってて、嫌な顔もせずにずっと隣にいたんだ。

「旭は産まれた時からずっと旭なんだよ。俺はずっと見てきたよ。他の誰でもない。俺なんかでもない。旭は旭でいていいの。言ったでしょ、俺が旭のファン一号になるって」

そう言われた時、俺はまた涙が出てきて小学生みたいにわんわん言いながら泣いてた。情けなかったけど、別に良かった。今まで抱え続けてきたものが全部溢れ出して、でも今度は優しく溶けていくみたいだったから。玲央がまた泣き出した俺を見て慌てたけど、さっきとは違う泣き方に気付いて、笑いながらティッシュを渡してくれる。
「大体俺はね、旭が思うほど完璧じゃないよ。絵が下手過ぎて高校の時は画伯って呼ばれてたし、いまだにピーマンは食べられない。寝癖ついたまま出かけちゃうし、結構雑なところあるし、方向音痴だし。あとは、このあいだ麦茶と間違ってめんつゆ飲んだでしょ。友達だと思って大声で呼んだら全然知らない人だったこともあるし……まだいる?」
指折り自分のダメなところを挙げていく玲央に思わず泣きながら俺も笑う。
きっと一生、兄には敵わないんだろう。それでも。

俺はその後、歌を一つ作った。佐藤旭名義で作詞をしたその歌は、どうしようもできない俺の、どうしようもない感情そのものだったが、俺が俺であるための歌だった。今でも俺はレオとして活動しているが、もう大丈夫。

街中には今日もビーストの曲が流れている。


***

「ライオン」
作詞:佐藤旭

僕はいつも少し前を行く
その背中を必死に追いかけてる
ねえ ライオン
いつか僕にも王冠が

ひとつひとつの小さなことに大丈夫だって言い聞かせて
マインドセットして
そういうのを積み重ねている

何者にもなれない自分に心が押しつぶされそうでも
真面目だからそれでも生きていかなきゃいけない
差し伸べる手なんか期待しちゃいない
今日も自分の足でどうにか立ってる

僕はいつも少し前を行く
その姿を必死に真似ている
ねえ ライオン
いつか僕にも栄光が

ひとつひとつの小さなことでも自分で自分を褒めて
マインドセットして
そういうのを積み重ねている

ライオンになんてなれない 本当は分かっているけど
泣いてたって来ちゃう明日をどうしようもできないから
毎日必死に頑張ってんだ

だけど僕がもし本当に
ライオンになってしまったら
その時は

いつも少し前にいる君が
僕の本当の名前を呼んで
ねえ ライオン
いつか僕にも僕の姿が

彼は誰時に迷っても
日が昇り光りさす朝
僕は僕を見つける

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