色と私 3「わかる」
「わかる」が昨年後半からの私のテーマだった。
カラペハリエ(旧 ERICCO BOOK PROJECT)について
"わかって"もらうために、
取材やラジオやあらゆる場で
プレゼンテーションしてきたけれど、
シンプルにガツンと伝えるのって難しいなと
何度も壁にぶつかってきた。
伝える私の技術の未熟さと同時に、「わかる」っていうことは
相手の持つ世界観に委ねるしかないという前提条件も見えてきた。
人は、うまれてからずっと、「自分」しか経験してないから、
一人一人の世界はその人の「主観」でできているのだ、
ということに気がついた。
私が見えている世界は、私の「主観」でできている。
あなたに見えている世界は、あなたの「主観」でできている。
同じ事象に出くわして、
それをどう捉えるかは、
その人の主観が全てだということに
あらためて気が付いたのだった。
だから、
同じ「わかる」という言葉を複数人が発したとしても、
その"わかった中身"は人によって全然違うのだ。
受け取り手一人一人の、捉え方、経験、バックグラウンド、
そういったものに、「わかる」は左右されざるをえない。
そのことがようやく「わかった」のは、
私にとって、一つの節目のようなできごとだったかもしれない。
同時に、伝え手として、
自分の「わかる」範囲も伝えられる範囲も、
私の知覚の範囲内でしか行われない。
昨日の色の学びでもズバリ、
「自分の見えている世界にしか相手を連れていってあげられない」という言葉は、グスッと私のお腹に刺さったのであった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?