見出し画像

【自己紹介】 寄り道と葛藤だらけの人生

改めまして、こんにちは。

英梨(えり)と申します。
eriicraftsという名でスウェーデンにて銀粘土のアクセサリー制作をしています。過去にはイタリアでテキスタイルデザインの勉強をしていたりもしました。

よく、スウェーデンに住んでいることや、イタリアで勉強していたことをお話すると、「すごい!」と言ってもらったりするのですが、向こう見ずに行動すること以外、大きな何かを成し遂げたわけでもなく、特に何がすごいわけでもない私は、そんなお言葉をいただくたびに、抱いていただくイメージとのギャップやプレッシャーを感じたりしていたので、今回自己紹介という形で、これまでの過去を綴ってみることにしました。
自分の能力を顧みずに行動する癖があるので、普通なら経験しないような、様々な珍体験をしている自負はあります。笑

過去を思い出しつつ書いていたら、ものすごく長くなってしまい、いつまでも下書きのままで終わってしまいそうなので、極力端折ってみることにしました。(端折ったはずなのにやっぱり長くなってしまうので、もうこのまま投稿することにします 笑)

いつのまにか今年で40歳。なかなか方向性が定まらない中途半端な人生ですが、そんな過去を受け入れ、これから定めていくための自分への覚書としても、私の人生のこれまでをまとめてみます。

⚪️ プロフィール

埼玉県上尾市生まれ、浦和市育ち(小学1年の2学期〜大学卒業まで)。
2014年から南スウェーデン在住。2016年生まれの娘と夫と3人暮らし。

《好きなこと、興味のあること》
・植物(庭先や道端に咲いているような草花に特に惹かれます)
・作ること全般(手しごと・創作料理・お菓子作りなど)
・文化交流・国際交流(国内外問わず未知の世界に惹かれます)
・ガーデニングと家庭菜園(ターシャ・テューダー、北海道の紫竹おばあちゃんを尊敬しています)
・妄想・空想(物心ついた時からの癖)
・音楽鑑賞(邦楽・洋楽ロック、クラシック、ジャズ、ボサノバなど、そのときの気分に合わせて気に入った曲はジャンル問わずいろいろ聴きます)
(小学生時代からのB'zファン)

《心に残っている映画》
・ライフ・イズ・ビューティフル(人生で一番感動した映画)
・人生フルーツ(目指している憧れの生活)
・ブラッドダイヤモンド(この世の理不尽さを思い知った映画)
・ジブリ映画全般(ラピュタ・風の谷のナウシカ・カリオストロの城が特にお気に入り)

《好きな本・心に残っている本》
・星新一の短編小説(読書嫌いだった私が唯一楽しめた本)
・伝記系(自分を振り返るきっかけになるため)
・供述によるとペレイラは(読書の魅力に目覚めるきっかけとなった印象深い一冊)

⚪️ 自分年表


小学校 〜 勉強に全く興味の無い空想少女

算数と体育が大の苦手で、特に算数の成績は親からも酷く心配されるほど。体育の50m走テストでは、全速力で走ったのに先生に「真面目に走りなさい!」と怒られたり、野球の授業ではルールが分からなくて、バットに球が当たった瞬間、クラスメイトに「走れ!」と言われて慌ててピッチャー目掛けて走り出すような子でした。(当時、この運動音痴な私に、熱心に手取り足取り野球のルールを教えてくれたI君、今更だけどありがとう。笑)

「主要科目以外」に該当する、音楽・図工・手芸などは好きでしたが、とにかく「勉強」と呼ばれるものには全く興味がなく、話している先生の顔をじっと見つめて、授業をしっかり聞いている風で空想の世界に浸ってるような子だったので、先生からは「なぜいつもきちんと授業を聞いてるのに成績が良くないんだろう…」と思われていたかもしれません。
クラブ活動は、手芸クラブ→料理クラブ→野外観察クラブ。
(この頃の方が自分の好きな事が分かってたんだなぁと、今更しみじみ)
中学年からは金管バンドでパーカッションを担当。

中学校 〜 芽生えた劣等感

小学校時代から金管バンド所属だったこともあり、部活は吹奏楽部(ホルン担当)へ。
中学3年頃からの受験戦争の雰囲気に耐えられなくなり、学力に劣等感を感じていた私は、部活を逃げ場に現実逃避の日々を送りました。
幼少期から習い始め、親から唯一期待されていたピアノ専門での進学も拒み、自暴自棄な毎日。
ただ漠然と「可愛い制服を着て、華の女子高生、ごく普通の青春生活」に
憧れていたものの、そんな願いは叶わず、見兼ねた親から音楽大学付属の高校(でも普通科専攻)を紹介され、促されるまま進学することに。

高校 〜 劣等感と親への反抗、そして訪れた転機

「自由でキラキラした高校生活」に憧れていた私を牽制するためだったのか、親の薦めで進学した高校は「中学よりも厳しい校則に縛られた、地味な制服の女子校」でした。
両親は私が非行に走ることを心配していたのか、常に監視されているように感じていましたが、それに耐えられなかった私は親の反対を押し切り、レストランでアルバイトをしたり、とにかく自由を求めて反抗していました。

そんなある日、私にとって人生最大の転機となる出来事がありました。
音楽大学付属だったため、校内に音楽ホールがあったのですが、そこでのコンサートに訪れていたイギリスからの聖歌隊との交歓会に参加する機会があり、私は自分が全く英語が話せないことを顧みもせずに興味本位で参加し、そこで初めて「本場の英語」に触れることとなりました。
そして、自分にとっては未知の世界だった異国の人たちと「言葉は通じなかったけど心は通じ合えた」ような、言葉にできない感動を経験し、
「英語が話せるようになって、世界中の英語話者と友達になりたい」と強く思って、英語を一から学び直す決心をしました。
(→ 今思えば、現在この夢は現実になりました!)

振り返れば小学生の頃、異文化交流でクラスにブラジルから女性が来ていて、共に学校生活を送った経験が、私にとっては初めて外国人と交流をした出来事だと思いますが、そのときも「異国」に対してワクワク感のようなものを感じていました。(当時、家のトイレに世界地図が貼ってあり、ブラジルの場所を確認しては「どんな場所なのかなぁ」と興味津々だったことを思い出します)

この交歓会でイギリス人聖歌隊の彼らと交流するまで、ありとあらゆる勉強をとにかく避けていた私でしたが、この経験がきっかけとなって、人生で初めて自発的に英語の学習を始めるようになりました。

大学 〜 初めての受験勉強

とはいえ、英語の勉強を始めたのは高校2年生の秋頃で、しかも興味を持ったのは英語だけだったので大学受験に挑めるほどの学力は全く無く、付属大学でちょうど国際文化学部が新設されたこともあって、そのまま進学することになりました。イギリスに傾倒した学校だったことから、講師陣はみんなイギリス系で、イギリスの文化について学習したり、イギリスから訪れた同世代の若者達と共に過ごしたりするうち、少しずつ自分の英語が通じるようになっていく楽しさに喜びを感じるようになりました。
この頃、授業内でウィリアムモリスのウォールペーパーについて学ぶ機会があったことで、アート&クラフトの世界にも興味を持ちました。

ほぼ英語漬けの大学生活を楽しんでいましたが、高校から付属校にいたこともあり、段々と外部校への憧れが強くなって、3年次に他大学への編入を決意しました。これが私にとっては人生初の「受験勉強」となりました。
(英語の勉強しかしなかったので、一般的な受験勉強とはかけ離れていましたが)

この時期はとにかく英語の勉強が楽しく、英会話に通ったり、仲良くなった先生を訪ねて夏休みにオーストラリアへ語学留学したり。アルバイトで得た収入は、ほとんど英語の勉強や留学費用に充てていました。
そして大学4年生になった頃、編入先の大学で交換留学制度が始まり、父に薦められてダメ元で応募したところ予想に反して選考に通ることができ、4ヶ月間アメリカ・ミネソタ州の大学で6名の仲間と共にアメリカでの大学生活を送りました。現地の大学ではカラーデザイン、ピアノ、世界の音楽などを履修しましたが、ネイティブの話す英語とかけ離れた自分の語学力を痛感する体験にもなりました。

年末に帰国後、既に次年度の就職活動が開始し、同級生はほぼ就職先が決定していた中「また留学したいな・・」とぼんやり思いつつ留学の余韻に浸っていましたが、新年が明けた頃に「でもお金がないと留学もできないし、できれば正社員で働いてなるべく短期で稼ぐほうがいいのでは」と突然焦り出し、大学の進路センターに相談して、その時点でまだ新卒募集をしていた会社(2社のうちの1社)に応募したところ、大変ありがたいことに採用していただいたことで、ギリギリで社会人となりました。

社会人 〜 仕事へのやりがいと、長期留学の夢

電子部品メーカーにて営業事務の新入社員として勤務を始め、国内営業の他、海外拠点の工場とのやり取りを通じ、英語でのお仕事の機会もいただきました。入社したての頃は正社員としての責任の重さやストレスで悩むこともありましたが、親切な上司や同僚に恵まれ、典型的なOL生活を送りました。ここでは、新入社員は朝と昼に社内全員のお茶汲みを任されたりと、昔ながらの慣習の残る会社でしたが、今振り返ると、この会社で社会人としての基礎を教えていただいたような気がします。
仕事にはやりがいを感じていたものの、ずっと抱えていた長期留学の夢を叶えたくなり、目標貯金額に到達した2年で退職を決断しました。

退職後は留学準備期間として1年間、語学学校の受付カウンセラーとして早朝勤務を始めました。
せっかく長期留学するならば、何か「手に職」を付けたかったのと、学生時代から憧れてたクラフトを学びたいと思い、大学時代に影響を受けたウィリアムモリスのアートクラフトを学びに「イギリスのテキスタイルデザインスクールへ行こう」と決めました。しかし当時のイギリスポンド高騰により留学費用が捻出できないことが判明し、他の学校を探したところ、イタリア・フィレンツェの学校が見つかったため、午前中はパート、午後は勤務先でのスタッフレッスンや、イタリア文化会館にてイタリア語を学習しつつ、留学準備をしました。この語学学校でのお仕事は本当に楽しく、できることなら職場を離れたくないほど大好きな環境でした。

イタリア留学 〜 デザイン宝庫の地での感動と葛藤

準備が整った1年後に、計画通りイタリアへ。
イタリア文化会館の奨学制度を利用させていただき、ローマ郊外のオルヴィエートの学校とフィレンツェの語学学校でイタリア語の勉強を6週間ほど経てから、デザイン学校へ入学しました。テキスタイルコースでは、フリーハンドでのデザイン技法、機械ニット、機織り、シルクスクリーンプリント等を学びました。

ところがいざ入学してみると、授業内容は期待通りだったものの、学校の雰囲気が自分の想像とは大分異なり、クラスメイトは超裕福な家庭の子達が多かったことで気軽に遊ぶこともできなくて友人ができず、孤独を感じるようになりました。更に、常に逼迫した経済状況から精神的にも病み始め、言葉を発することができなくなったり、人と会うことが怖くなったりして何度も途中で帰国することを考えましたが、校外で友人ができ始めたことで、彼らにたくさん支えられ、なんとか2年間を終えました。

学校終了後は精神的にかなり疲弊していましたが、なんとか留学の成果を形にしたいと思い、友人に紹介していただいたフィレンツェ中心部の会場にて個展を開催しました。完全に自己満足の開催でしたが、想像以上に多くの方が訪問してくださったことで思わぬ人脈が広がり、そのご縁でフィレンツェ近郊のテキスタイル会社にデザイン提供をさせていただいたり、留学後半になって良い出会いにたくさん恵まれたこともあり、ギリギリの精神状態の中で僅かな可能性を探っていましたが、その時の経済状況からもそれ以上の滞在延長が困難となり、志半ばで帰国しました。

日本社会復帰の壁、そして現在の夫Jとの出会い

帰国後は精神的に疲弊しきっていて、いきなり正社員として社会復帰するのは難しいと感じたため、幼少期から憧れていたお花屋さんにてアルバイトを始めました。植物の扱い方や手入れ方法など、学ぶことも多く私なりに楽しんでいたのですが、しばらくして人間関係の難しさに直面したことで数ヶ月で退職しました。

その後は、なんとかしてイタリア留学での経験を活かしたいと思い、テキスタイルデザイナーの仕事を探しましたが、「新卒」「デザイナー実務経験2年以上」の壁から就職先が見つからず、自暴自棄に陥りました。

気が付けば30歳も目前になり「いつか行きたい」と思っていたワーキングホリデーについて調べていたところ(多くのワーキングホリデーは30歳以下が対象)、数年前からデンマークが加入していたことを知り、以前から漠然と興味のあった「北欧諸国の環境問題への取り組み」についてインターネットで調べていました。そして環境関連の仕事に従事していて日本の自然や庭園に興味を持っていたデンマーク在住のJ(現在の夫 )にネット上の情報交換の場で出会いました。

しばらく情報交換をしていたところ、Jが「5月までに有給を消化しないといけないから、その前に日本の桜を見にお花見観光したい」とのことで日本を訪れることになり、2〜3日間、東京周辺のお花見場所を案内しました。
東京ガイドをしている最中に、Jからデンマークでの環境への取り組みなどを聞いて更に興味を持ち、デンマークへのワーキングホリデー資金を貯めるために本格的に就職活動を始めました。

ほどなくして採用していただいたアパレル会社にて、夢だったテキスタイルデザイナー(兼、貿易事務)として仕事を始めました。しかしいざ入社してみると、私以外にデザイン担当の方がおらず、デザイナーとしてのキャリアが全く無かった私は、兼務だった貿易事務の仕事ばかりに傾倒してしまったことで、数ヶ月間社長や上司から圧力を受けたり、人格否定的な発言を何度も受けた後、入社から4ヶ月程で強制解雇を通達されました。

自分の存在意義を否定されたように感じたことと、留学から帰国後、何度も直面する人間関係の難しさや、日本社会に馴染めない自分にも酷く自己嫌悪になり、自問自答しながら絶望しました。

そんなとき、時々連絡を取っていたJが「息抜きにデンマークに旅行にくれば?」と提案してくれたことから、ネガティブな思いを払拭すべく思い切って旅行する決意をしました。

初めての北欧旅行、再就職先での激務、Jの来日

初めて訪れた北欧は、見るもの全てが目新しくワクワクする刺激がいっぱいでした。思いつめていたネガティブな感情やストレスは、この旅行のおかげでリセットされ、Jとは遠距離ながらもお付き合いを始めることとなり、ネガティブになっていた精神状態も改善して帰国しました。

「とにかく早く次の仕事を見つけてお金を貯めて、ワーホリでデンマークへ渡航する」と決心した私は、一刻も早く安定収入を得たいと思い、夢だったテキスタイルデザイン職を諦め、経験のあった事務職で語学が活かせそうな仕事を探した結果、イタリアンアパレルを輸入販売する会社に採用していただきました。

入社後は数週間のうちに様々な部署に任命され転々としつつ、最終的に元々応募していた貿易事務を担当することになりました。
ところが、この部署に移ってからというもの、ランチ休憩もまともに取れず、終電近くまで無給の残業をしても、休日出勤をしても、仕事が追いつかない日々となりました。社内ではいつも誰かが叱責、罵倒され、ドアを激しく叩く音や怒鳴り声が鳴り響き、上司に話しかけても露骨に無視されたりして、急激に精神状態がおかしくなっていきました。勤務中でも突然涙が止まらなくなってはトイレに駆け込み、いつのまにか嬉しいも悲しいも感情そのものが分からなくなって、出勤時は体が硬直して動かなくなりました。
ある日、深夜の帰宅中に電車内で体調を崩し駅員さんに大変なご迷惑をお掛けしてしまったこと、仕事のことを考えると酷い動悸がしたり、上司や社長に対して異常な恐怖心を感じて出勤できなくなったことで、彼らが出張で不在のうちに逃げるように退職しました。

実は、私がそんなギリギリの精神状態の日々を送っていた中、私の代わりにJがワーホリビザを取得し、仕事を休職して来日していました。
本来なら来てくれて嬉しいはずなのに、当時の私は喜ぶこともできず、逆にストレスに感じてしまっていました。

前職への再就職と、思いがけない仕事のオファー

退職後は無気力状態となり、しばらく何もできずに家に篭っていましたが、無職期間が続くことにも自己嫌悪になり始めたため、この先どうしていくかを考えました。
自分の過去を否定するようで辛かったのですが、私にとって大金だった数百万の資金を貯めて実現した、イタリア留学の経験を職探しに活かそうとすると、どうしてもネガティブループに入ってしまうと感じたため、その後は「イタリア」や「テキスタイル」のキーワードで就活することを一切止めることを決め、全く関係無い分野の職業訓練コースにも応募していました。

そんなとき、ふと留学前に勤務していた語学学校を思い出すと、楽しかった当時の記憶が蘇ってきたため、藁にもすがる思いで応募してみたところ、契約社員として再び採用していただけることになりました。

前職とは打って変わって穏やかで平和な職場でしたが、始めは温厚な上司に少し話しかけられるだけで前職での恐怖心が蘇って過剰反応していて「どうしたの?僕怪獣じゃないけどw」と冗談まじりに言われたことで我に返り、自分の精神状態の異常さを実感しました。でも、温かい人間関係のおかげで体調が徐々に回復していくのを感じ、楽しくお仕事を過ごしていましたが、やがて正社員として安定収入を得たいという気持ちも強くなっていました。

上司に相談したところ「社内体制が大きく変わっている最中で、残念ながら雇用体制をすぐに変えることが難しい」とのお返事を頂き、少し落ち込んでいたところ、ちょうど同じ頃に突然友人から連絡があり、イタリア家具を輸入販売する会社での海外窓口事務のお仕事のオファーがありました。
正直、前職での経験があまりに辛かったのと、避けていた「イタリア」キーワードが入っていたため、非正社員であること以外は居心地の良かった職場を離れるのはとても怖かったですが、思い切って転職を決意することにしました。
やっと出会えた温かな職場を離れることが惜しい気持ちと、上司や先輩への感謝の気持ちと、見えない未来に対する不安が入り混じり、最後は涙ながらにお別れしました。

恐る恐る転職したお仕事を始めてみると、家具の買付や商談でイタリア出張へ同行させていただいたり、留学の経験を活かした貴重な経験を積ませていただき、毎日が充実し始めて、ようやく社会の役に立ち始めることができたようで喜びを噛み締めながらお仕事していました。

新たな岐路

そんなある日、来日していたJから結婚の話をされました。
当時の私は仕事が楽しくなってきた矢先で、安定した生活をようやく手に入れて体調の回復を感じていた頃だったため、移住前提となるJとの結婚にはすぐにお返事ができませんでした。
でも、ワーホリビザで来日して以来ずっと日本でアルバイト生活を送っていたJとしては、「そろそろ帰国して安定した仕事を得たい」と思っていたようで、彼の真面目な気持ちも尊重したいし、自分も納得できる選択をしたい・・と、しばらく思い悩みました。

Jといる間は、良い面も悪い面も、全ての自分をさらけ出せる家族のような安心感を感じていたので、彼との結婚に対する抵抗はありませんでしたが、国際結婚して海外移住したら、「今後、生まれ育った日本で生活することはなくなる」「家族に万が一のことがあってもすぐに駆けつけることはできないかもしれない」「新たな言語をまた一から学ばなければいけない」「移住した先で、彼に何かあったら異国で一人でも生きていかなければいけないかもしれない→仕事はどうする?」等の現実的な不安がグルグルして、はっきりと決断することができないでいましたが、私が思い悩んでいる間にどんどんと話は進んでいきました。

スウェーデン移住と身体の異変

いざ移住について調べていくと、彼の生まれ育ったデンマークは、外国人にかなり厳しい居住条件があることが判明しました。
でも、たまたま彼のお父さんがスウェーデン出身で二重国籍だったため、スウェーデンへの移住を検討し始めました。
その後、彼はデンマークでの仕事が見つかったため、一足先に日本を離れ、海を渡ってすぐの南スウェーデンで暮らし始めていました。

一方の私は、目の前の大きな現実の変化に気持ちがついていかず、やっと馴染めた日本からもなかなか離れることができなかったのですが、鉛のようだった体を動かして少しずつ準備を始め、約半年後に彼の待つスウェーデンへ引っ越しをしました。いつも旅行で成田空港を訪れるとワクワクと高揚感でいっぱいだったのに、このときは出発数日前から涙が止まらず、当日も大きな不安とストレスで意識が朦朧としていました。
そのため、周りの祝福とは裏腹な自分の感情や、そんなネガティブな思いを抱えた状態で移住することに、待ってくれている彼にも申し訳なく、酷く自己嫌悪になっていました。

いざスウェーデンに着いてみると、「あぁ・・またこの感覚か・・」と、イタリア留学当初の記憶が蘇りました。お店に行っても、テレビをつけても、近所の人に会っても、言葉が分からない。イタリアへ行った時は、あらかじめ基礎学習をしていたのと、明るくオープンな国民性に助けられて比較的早く日常会話を習得することができましたが、スウェーデン語は全く事前勉強せずに移住したため、本当にゼロからのスタートでした。

彼は仕事で日中不在のため、ほとんど家に一人でいる生活で、外に出ても誰かに話しかけられるのが怖くて、ほぼ引きこもっていました。
そんな中、「外国人のためのスウェーデン語学校」制度が移住者のために用意されていることを知り、早速申請して通い始めました。

クラスメイトは全員スウェーデン語初心者の外国人。「移民」という共通項もあったことですぐに打ち解けることができ、全世界から様々な背景の人達が集う学校は毎日楽しめるようになりました。しかしすぐに感じたのが、習ったことを記憶できない、という違和感。集中力も続かず、以前のような暗記が殆どできなくなっていました。午前の授業が終わり、帰宅すると酷い疲労感で予習復習どころではなく、夕食の支度や片付け、掃除などの家事をすることもままならず、週末も外出する気力も無く、ほとんど閉じこもっていました。

漠然と感じる大きな不安感と、謎の記憶障害。何度も目の前が真っ暗になり、理由もなく涙が出たり、体が重く動かず絶望感を感じたり、感情が無くなったりして、数年前に日本で陥っていた状況に再び直面し、夫にも不満をぶつけ、どうすることもできず、もがく日々が続きました。

妊娠・出産と、長期うつの発覚

原因不明の体調不良が続く中、移住から2年が経つ頃に妊娠が発覚しました。当時の私は、自分の体調もろくに管理できない私に子育てできるのか・・という不安が大きく、妊娠を素直に喜ぶことができなかったので、お腹に宿った子に申し訳なくてずっと自己嫌悪になっていました。
出産は、日本へ里帰りをすると夫が立ち会いできないため、スウェーデンで出産しました。特に大きな問題も無く、夫も率先してお世話をしてくれたおかげで比較的スムーズに育児ができていたのですが、相変わらず突然どうしようもない不安感が定期的に襲ってきては絶望に苛まれていました。
出産から半年ほどたち、家族3人で日本へ帰国したときに、気になっていた心療内科を訪ねることにしました。
そこで、ずっと続いていた謎の体調不良について全て打ち明け、様々な症状や、過去のことなども聞かれるがままに全てお話したところ、「少なくとも鬱病発症から5年以上は経過している状態」と診断されました。

それまで何度か「鬱」の可能性について考えたこともありましたが、先延ばしにしていた結果でした。診断を聞いたときは、ずっと見えなかった原因が分かり、安堵のような感覚もありましたが、お医者さんから「既に発症から5年以上経過しているため、治るのにも最低同じ期間(= 5年以上)はかかるし、そもそも治るかどうかは分からない」と伝えられたときは、それまで通院しなかったことを深く後悔しました。
しかも海外在住のため、定期的に通院してカウンセリングを受けることもできず、この先どう鬱と向き合っていくかがその後の課題となりました。

自分を取り戻す感覚

突然襲われる絶望感の原因が掴めたことで、気持ち的には少し解放されたように感じたものの「治るか分からない上に、この状態があと5年」という現実にも落ち込みましたが、「とりあえずは今一番大切な育児に専念して娘と向き合い、成長を一緒に楽しむ」と決めました。その後もしばらくは、絶望感に襲われ「こんな私が母親で娘に本当に申し訳ない」と自己嫌悪になったりもしましたが、そんな私を気遣うかのように娘は元気にすくすくと成長し、その純粋無垢な表情や姿を見るうちに、段々と元気だった頃の自分に戻っていくような感覚がありました。

思えば体調がおかしかった数年間、それまで好きだったはずのお菓子作りや料理、手芸にも全く興味が無くなり、好きで楽しんでいた頃を思い出そうとして取り掛かってみても、少しのことで疲れ果てて思うように作れなかったり、好きだった音楽も聴くことができなくなっていました。ところが、時間が経つにつれて霧が少しずつ晴れていくような、錆付いていた脳が再び動き始めるような感覚、鉛のようだった体が軽くなっていくような感覚があり、その経過とともに、少しでも「楽しそう、やってみたい」と感じたことを、心が訴えてくるがままに実行したりしていました。

社会保障制度の重圧と、銀粘土講師養成講座への挑戦

私の住むスウェーデンは、日本でも知られている通り「社会保障」が手厚く、移民に対しても学校へ行くと国から経済支援を受けながら学べたり、生活保護申請もできます。また「男女平等」も非常に進んでいて、共働きは当たり前、男性が家事育児に参加することも当たり前のため、「専業主婦」という概念はあまりなく、一般的に「無職」とみなされます。
移住以来、語学学習などで国から支援していただきながら学習してきたことを考えると、この社会の一員として、なんとか職に就いて今度は税金を納める立場にならなければ、という気持ちが、体調の回復とともに強くなりましたが、外国人として仕事を得る厳しさにも直面しました。
私が日本で携わっていたような事務のお仕事を得るためには、最低限英語とスウェーデン語の高い語学力が必須で、しかも、元々スウェーデン語も英語も流暢なスウェーデン人と対等に競うことになるため、これまでの職務経歴を活かした仕事に就くのは厳しいことを自覚しました。

そこで、言葉の壁があっても職を得られる方法を考えていたところ、あるきっかけで銀粘土に出会いました。銀粘土は日本で開発され、日本で生産されているため、技能を身につけて講座などを開催すればお仕事として活動できるかもしれない、と思い、早速実家近くの銀粘土講師の方を探して連絡を取り、一時帰国中に講師資格コースを受講することにしました。
およそ3ヶ月間ひたすら没頭し、なんとかギリギリで帰国中に講師資格を取得しました。

スウェーデンに戻ってからは、早速カルチャースクールに出向いてワークショップをしたり、少人数制の教室を開催したりしましたが、ここでも語学力の乏しさからトラブルに見舞われたり、フリーランスでやっていくためには最低限の経営知識も必要になるため、一旦ストップして、中途半端になっていたスウェーデン語のコースを一定レベルまでクリアし、その後はビジネススクールに通って基礎的な経営知識について学習していました。
ところが、通っていた学校で潜在差別のような場面に何度も直面し、せっかく回復していた体調が再び低迷する不安を感じたため、志半ばでしたが途中退学することにしました。

「新しい働き方LAB」との出会い

「何かを手放したら何かを得られる」とは本当で、この頃にランサーズ株式会社主催の「新しい働き方LAB」(自分にとっての新しい働き方を見つけるための実験活動)に参加させていただいたことは、失意だった私へ希望を与えていただいた嬉しい機会でした。
数年間、新たな地に馴染もうと奮闘し、長い間デジタル環境から遠ざかっていた私が、この活動のおかげでnoteの存在を知ることができたり、Twitterを始められたのも大きな一歩となりました。

1人だとなかなか行動に起こしにくいことも、仲間がいることで新しい挑戦への勇気も湧き、日々感謝の思いでいっぱいです。
やるべきこと、やりたいことが山積みですが、少しずつ前進していけるよう頑張ります。

長くなりましたが、ここまで読んでくださった方、貴重なお時間をとって読んでくださって、本当にありがとうございます。

紆余曲折だらけの人生ですが、これからは「とにかく継続」を目標に、少しずつでもコツコツと頑張りたいと思います。

スクリーンショット 2021-08-20 18.21.52


この記事が参加している募集

熟成下書き