隠しても溢れ出てしまうもの。
私たちのセンサーが感じ取るもの。
どうしてそう思うのかわからないけど、わかること。
たたずまい? 所作? 表情? 目の光? 口調? 言葉遣い? 存在感? かもし出すオーラ? 第6感? すべてのこと。
踊りにもその人がまるっと現れます。表現しようと思わなくても現れます。
美しいものも見えるし、醜いものも見えてしまう。感じてしまう。
現れ出るものは全て美しくありたい。
大好きなアレクサンダーテクニーク教師のトミートンプソン先生の、今年3月の講座で、ダンサーだった奥様の踊っている動画を、観せてもらいました。
ただありのままの彼女が現れ出ていてそこにいる。踊っている。
静かで、悩ましく、はかなげな、それでいて、強い。
人の命の尊さを想う。
毎日出会う、一人一人が大切な大切な人。
トミーは、定義を保留すると言います。
見た瞬間に、この人は、こういう人だと決めつける。それをやめてみる。
自分に対しても、こうあらねば、こうあるべきだ、もしくは、自分はこういう人間だと決めつけているのでは?
自分は、母である、妻である、両親のこどもである、ダンサーである、教える人である、学ぶ人である、その定義を保留にしてみたらどうだろう。
母でもなく、妻でもなく、両親のこどもでもなく、ダンサーでもなく、教える人でもなく、学ぶ人でもなく、男女の区別すら、保留にしてみたらどうだろう。
ただただ現れ出てくるものは、自分、ただの人間。
それをトミーは美しいと、言う。
あなたと私の境目がなくなっていくみたい。
今隣の部屋で聞こえている娘たちの笑い声が、ずーっと続きますように。
世界が平和でありますように。
何が出来るのか。
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