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私の父について

年末年始の忙しない中、みなさん風邪などひかず元気でお過ごしでしょうか?
ばたばたと子どもたちとの冬休みを過ごす中、今年行ない続けてきた私の気持ちを整理している作業の上でどうしても年内にしておきたいことがあり、今日はそのことをブログに綴ろうと思います。
とても長い文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。



先日私は私の父親の戸籍を取得申請しました。
取り寄せたのは父の今の本籍(住所)と婚姻関係が分かる戸籍謄本と、過去の婚姻関係や子などの籍の流れが全て分かる改製原戸籍です。

父の戸籍を調べた理由は、両親離婚後28年間会うこともなかった父がどうしていたのかを母から、
また父の実家の近所にJWのおなじK会衆の姉妹の弟さんの家がありそこから情報がまわってきたため、ある程度聞かされ知っていた上で、

父が亡くなった場合、相続の関係で戸籍を辿って子である私に連絡が来る可能性があり、その時に初めて全ての事実を知る前に予め知っておくことにより動揺したくなかったからです。



取得方法としては、まず最寄りの市区町村役場の市民課へ行き方法を詳しく教えていただけます。

父から見て私は『直系卑属』となりますので、父の戸籍を取り寄せることは誰にも、父母にも知られずに可能です。

必要書類として

◯『戸籍交付申請書(請求書)』
◯私の本人確認書類(免許証コピーなど)
◯戸籍謄本発行手数料(郵便局にて定額小為替証書を購入)
◯私の宛先を書いて¥94切手を貼った返信用封筒
◯※あるとスムーズなものとして私の戸籍抄本があると私が父の実の娘:直系卑属であることをすぐに証明できます

これらを封筒に入れて¥94切手を貼り、父の本籍登録市区町村役場に郵送するのみです。

『戸籍交付申請書(請求書)』には取得対象者の本籍記入欄があり、ここに父の本籍地を記入しないと申請できず、不明の場合は私の戸籍抄本に『従前戸籍』が記載されていますので、その市区町村の役場に確認を取れば遡ることができます。

私の父の場合、父方の祖父母の他界後長男として家土地を受け継いだことが電話帳ネット版にて確認はできましたので、父の性格から本籍登録もそこにしているであろうと予想でき、遡ることなく父の本籍地と生年月日を記入して郵送しました。

記憶というのは恐ろしいものですね。
数日後自宅のポストに父の本籍地役場から返信用封筒の郵便物が届きました。



中身を見る前におさらいしておくと、両親離婚後私が父について知っていることは

①再婚は2回していること
②1回目の再婚相手は母との婚姻中から不倫関係にあった人で、私と同い年の連れ娘がいた
(※『ERIEちゃんが転校したあとに入れ替わりでERIEちゃんとおなじ苗字の子が転校してきたから、なにか関係があるの?』とお友だちに聞かれた時に連れ娘の名前は聞きました)
③再婚相手との間に娘をひとりもうけているが程なくして離婚
④ほどなくして東南アジアの国の方と再再婚

ここまでです。

このあとなにがあったとしても私は知ることができず、私には一体何人の異母兄弟がいるのだろうとずっと思って生きてきました。



結果は私が知っていたことがすべてでした。

つまり私には両親がおなじ妹の他に、血の繋がっていない姉(私より数ヶ月上の父の養女)、そして腹違いの26歳の妹がいます。

再婚した不倫相手は父母と同年代、再再婚した東南アジアの国の方は父より歳上、そしてその方との間に子どもはおらず、離婚はしていないようで父は存命とのことです。

そして両親が離婚したのが1月だったことも正解で、9歳の自分の記憶力に震えてしまいました。

無理もないことです、
ずっと両親が喧嘩ばかりで離婚のための家族会議に真夜中まで正座で同席させられ、年明けの寒い朝7時に夫婦喧嘩の末に父が母に馬乗りになり首を締め、母が助けを求めているのに襖の向こうで動けずに布団にくるまり、私は母を見殺しにしていたかもしれない日でしたから。



父の戸籍謄本を隅から隅まで読んで抱いた感情は、
私が知っている以上に不幸な子どもは産まれていなかったことに対する少しの安堵、
けれどそれ以外は『怒り』や『嫉妬』でした。



よくドラマや映画などで再婚し子どもをもうけました、という展開がありますが私はあまり直視できません。

もちろん実生活で『ステップファミリー』と呼ばれる状態で幸せに生活していらっしゃる方もいるので、すべてを否定するつもりはありません。

あくまで私の『家族』のおはなしです。

父は私と妹を捨て、その後子どもを作ったことに対して、私と妹のことなんて脳裏にもよぎらなかったのだと思います。

小学2年生の私にカーペットの下に隠しておいたラブレターが見つかり『ままにはないしょね。』と口止めをしたのですから、誠実さなんてものはなく自分がかわいくて仕方なかったのでしょう。

そんな父のもとで9年を過ごし、両親離婚後養育費すら払わず28年間会うことをしようともしなかった父が作った家庭のすべてです。



父のことは好きでした。
優しかったし、JWと関わる前は日曜日に家族で遊びに連れて行ってくれたり、ダンプカーの運転手だった父にダンプに1日乗せてくれて仕事内容を見学させてくれたりしたし、

私たちがJWと関わるようになり日曜日に家族で遊びに行くこともなくなり集会や奉仕活動に行く時の父の背中は寂しそうで、自治会のクリスマス会に参加できないことを母の前で証言させられて聞かされた父は複雑そうな顔で、離婚家族会議の時に私に『なんでクリスマス会に行けないって言ったんだ?』と言わせてしまって、

父の気持ちはわかるから、ごめんねってずっと思っていました。



でもいろんな感情を整理していくうちに、あることを思い出してしまいました。

両親離婚時父は『ERIEはいらないけれど妹は引き取ってもいい』と言い放ったことを。

私は『いらない子』と言われたのですよ。

私が人生において常に劣等感を感じ、愛されていないと思い自分を愛することも人を愛することもわからず自分が嫌いでたまらなくて、その原点は父の一言だったのだと。



そんな父が再婚し女の子をもうけ、その子に私がどうしても理解できなくて苦しい漢字を使って名前をつけたことが戸籍を取って分かりました。

産まれてくる子どもに最初にあげるプレゼントは名前だと言われています。

『お前はいらない』と私に言った父はわずか1年後どんなきもちで腹違いの妹にその漢字を入れた名前をプレゼントしたのかな。

なんで約3,000字も存在する人名用漢字のうち、その漢字を選んだのよ…。



これが私が抱いた『怒り』と『嫉妬』です。

彼女はもう26歳、彼女に全く罪はないし結局産まれてすぐに両親が離婚しているので、彼女に嫉妬するのは筋違いだということは理解しています。

でも私だって父親に愛されたかったよ…。
『天のお父さん』なんて一度も見えたことないんだよ…。



正直、ふざけんなよって思います。

醜く見えてもいい、これが私の正直な感情です。

知る必要はなかったのではと聞かれればそれまでかもしれませんが、私は父の娘だという事実は変えることができず、私には知る権利は存在していると言い聞かせ、結果としてやはり後々知った時に動揺しないからよかったと思っています。



最後まで長い文章を読んでいただきありがとうございました。
まだまだ寒い日が続きますので、体調には気をつけて年末年始をお過ごしください。

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