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シノヘ歴⓪(NSCに入るまで)


思い出したくても思い出せなくなる時が来るかもしれないので記録

0-①.四戸になる

僕は現在27歳でありながら、四戸歴5年、シノヘ歴2年である。
年齢=四戸歴でない原因は、僕が7歳の頃に借金と女を作って蒸発した父にあるのだが、母曰く子供の苗字問題や慰謝料を請求できる瞬間を狙っていたら離婚届を投函するタイミングを見失っていたとのこと。

◆父プチ情報
・クリスマスにサンタに外で会ったと言い張り、玄関で7歳の息子にトイザラスのビニール袋に入ったポケットモンスター ルビーを渡す。
・祖父の会社の支店を譲り受けるが、経営がド下手で負債を積み重ね、100年続いた会社を潰して祖父に自己破産3億円をつきつける
・恵まれた繁殖力を備えており、後妻との間に子供が2人いる模様

そんなこんなで15年が経ち、僕が大学卒業、妹Aが短大卒業、妹Bが高校卒業のタイミングで僕から母に提案し離婚が成立した。

子供の名字問題はクリアしたが、父に財産はなかったため慰謝料は一切請求できなかったようだ。

ちなみに兄はすでに就職していたので、戸籍上の名字が変わっても転職するまで旧姓を5年名乗り続けていたらしい

0-②.サラリーマン四戸、爆誕

僕は奈良の県立大学を卒業後、3年間サラリーマンをしていた。
天下のトヨタの子の子の子、ひ孫会社の自動車部品メーカーの総合職。
(のちにグループ再編で孫に繰り上がる、成り孫会社)

僕が務めていた企業は福井県にあったのだが、地元では大企業。
中国の好況もあってイケイケドンドンのタイミングでの入社だった。
ただ立地が福井、同期37人のうち27人くらいが地元出身。
ドラマやコントでしか聞かないような田舎訛りの方言。
僕は福井を完全に舐めきっていた。

その会社で僕は生産管理部 生産準備Gに属していた。
ざっくりと言うと、1年~2年後に世にリリースされる車両、それに搭載される部品の設計~商品化されるまでのプロジェクト進捗を管理する仕事。
すごくカッコ良く言うと、プロジェクトリーダーみたいなものだ。

振り返るとまぁなんて生意気なサラリーマンだったか。
・入社すぐの新人研修で、人事担当者にニラミをきかせてちゃんと見下す。
・自分の歓送迎会で道が分からず遅刻し、取締役を10分待たせる。
・配属後、初の愛知出張で、課長が運転する車の助手席で爆睡。
 →しかも帰りではなく行き。まだ疲れてないやろと。
こんなんが積み重なって、10月配属で11月には無視されていた。笑
終わっている、終わリーマンである。

0-③.信頼の回復

信頼の回復というのは時間がかかる。
僕の部署にはワイルドな部長、3人の課長(薄毛、天才、小声)、各課長にぶら下がる形で係長が各グループにいた。その下に担当者。

僕のグループは天才が率いており、5人の担当者がいた。
 No.1 元 独立リーグプロ野球選手 K(当時 30歳)
 No.2 コミュ力おばけ T(当時 28歳)
 No.3 親会社出向中 幻の天才KK(当時 29歳)
 No.4 愛嬌で乗り切る女性総合職 O(当時 23歳)
 No.5 関わるものみな嫌われる 四戸(当時 22歳)
 
エースは出向中だったので不在、見下せる。見下しチャンスだ。

ただ別にそうはならなかった、福井県は人が良すぎる。

僕の教育担当は、Tさんだった。
底抜けに明るくて、仕事は手を抜いていると悪評高かったが、皆が大好きになっちゃうような魅力的な人だった。

最初に僕が請け負ったプロジェクトの会議も、2~3週間は天才課長とTさんが付き添いで来てくれて会議進行を教えてくれた。

ただ長くは続かず、Tさんも自分のプロジェクトは忙しくなり、天才課長も多忙で僕のことが嫌いになっていったため、配属から1か月半ほどで会議を一人で行うことになった。干され担当者。

そういえばこの時、ほかの人は○○”くん”なのに、自分だけ四戸 ”さん” って呼ばれてて、距離を感じて病んでたなぁ。。

プロジェクト会議に招集するのは、他部署の担当者と係長以上。ときには課長や副部長。
こ、こわいいぃぃ。大人の男性の目つき怖いいぃぃ」
もう舐められないように必死で喋って、必死でメモしてた。
毎日がクタクタで定時が来るのを待つ日々。

0-④.転機

こんな孤独の会議が続いているとき、転機が訪れた。
ある日配属されたプロジェクト、詳細は搭載車両と日程感しか分からず。
モノづくりに一番大事な図面情報がなかなか降りてきていなかった。

「あれ、この日程感、、臭うぞ?」

新人ながらに直感で気づいた。
これは仕事をするフリに必死で色んなエクセルを開いて閉じてを勝手にして、分かったような顔をして頷いていた配属後の1週間が活きてきていた。

設計部署に数日連続で問い合わせるも情報なし、取引先の担当者に問い合わせるも指示は情報が出るまで待ってくださいの返答。そんな訳ない!

さすがにヤバいなと思った僕は、天才課長にチクった。
最初は確かスルーされたが、設計部署の証言もあり相手をしてくれた。
そこからは課長経由で取引先に連絡。
速攻で確認をしてもらい、プロジェクト日程アンマッチを確認した。
たしかちょっと褒められた。

えっへん!やってやったでい!

その1件あたりから徐々に会議にも来てくれるようになり、四戸君になっていった気がする。ご飯とかも連れてってもらった。ピース!

いろんな大きいプロジェクトも経験させてもらって、一番思いやりが強いプロジェクトは年間30億くらい稼ぎだす新製品の製造ライン新設を2年単位で任せてもらった。

田舎だったが田舎なりに楽しかった。
馬鹿な同期と外車を乗り回して、ガソリンをまき散らかして出かけたり。
県外出身者だけの寮で夜中までプロジェクターで映画を見たり、酒を飲みながら将来について語ったり。
仕事も激務ではないが、頭をちょっとは使って働いた。
当時の彼女とも特に問題なく順調だった。

1年目に乗ってたRX-8と乗り換えたChrysler300

変化がない毎日を愚痴っていた割に、意外と笑って過ごしていた。

0-⑤.COVID-19

社会人3年目を目前とした2月、世界中で新型コロナウイルスが暴れ散らかした。それはもう、すごく。

その時くらいから色々が変わり始めた。
社外での行動を逐一リスト化して毎日報告する義務が発生。
大阪では信じられないだろうが、福井では感染者が少なかったため2~3ヶ月で60人ほど。感染経路と関係図が新聞に掲載された。

もし感染したらと考えると何もできなかった。
彼女とも会わないようにしようと伝え、仕事ではリモートワークも導入され出社制限、会社に行っても仲のいい人たちに会えない日が続いた。
ニュースでは沢山の死亡者報告。

本当に死について考えさせられた。
死んだら何もできない、でも老若男女多くの方が実際に亡くなってる。

もう24歳、自分は何がしたいんだろうか。決まってた。
でも年齢を考えないなんてことはできなかった。
自分を騙して出た答えは、大学時代に目指した広告マンへの転職。
第2新卒なんて言葉に甘えて新卒採用に数社応募した。
あの時とは違って、本当に数社に絞って。ただ、致命的な問題。 

僕は新卒でもなんでもなかった!

だって2年働いてんだもん!!!受かんないよ!!
当時は通りまくったESすらも通らなかった。これは笑える。

冷静になった僕は平常運転に切り替え、仕事に励んだ。

0-⑥.羨望と後悔

そんな僕は実は高校時代に漫才を少しだけ齧っていた。
正確にはペロッと舐めていた。ペロッとね。ペロ。

幼少期から大好きだった漫才を始めたキッカケはハイスクール漫才2012。
今はピン芸人の真輝志さんのコンビが優勝したあの回だ。
当時僕は高校2年生。僕くらい漫才が大好きな人間が、その辺の高校生に負けないでしょ!くらいの気持ちでエントリーした。

相方は同じ中学から同じ高校に進学した大谷という自黒の爽やか青年。
(今は若ハゲに抗い筋トレをしているホテルマン)

初めてネタを書いて、夜の公園でネタ合わせをしたりした。
ジョギングをしてる人がいたら恥ずかしくて黙ったりした。懐かしい。

そんなこんなで自分たちでは完成した漫才で挑んだ予選。
惨敗。たぶん声が小さすぎて何も聞こえてなかったんじゃないかな。
イオンモール高の原。この年はあんまり覚えてないや。

悔しくてインディーズライブに出たりなんかして、一般35期とか言っちゃって。正確には煌Audirionには出てないから、ただの数か月目なのに。

高校3年生の春、SNSで繋がった高校生芸人。(以下、敬称略)
徳原旅行、元 赤もみじ阪田、ゼロカラン、狛犬 櫛野、戦士 げんせい、彗星チークダンス木佐・ちろる、夏目一年生、竹内ズ がまのすけ、まみ…
あいつは覚えてなかったけど、同期のぽいこまも。

この年も予選数を増やしたりネタ数を増やしたけど惨敗。
全然勝てなくて、スゴイ好きなのに向いてないなぁって実感した。
でも、めちゃくちゃ楽しかった。

奈良の田舎の高校生が、大阪に京都に出向いて漫才して同じ趣味の同世代と競うのがめちゃくちゃワクワクして青春だった。

それから7年して、ちょうど迷っている時期。
なんとなく放置してたTwitterにログインした。

知ってはいたけど一緒にやってた皆はまだ芸人だった。
自分は社会人になって、好きな車に乗って、お金も人並み+αくらいに稼いでて、たぶん進んでるのにメチャクチャ止まってた。
TVに見つかってる人もいれば、まだ表には出てない人さまざまだけどみんな面白くて、凄い羨ましくて、自分自身の選択をもう一度悔いた。

とはいえ24歳。どうしたものか。
自分自身に言い訳をしてたけど、本当にしたいことはなんやったやろかと考え直す。同じ悩みを30歳、40歳のタイミングでも持ってるんじゃないかなんて考えたら答えは一択だった。

「NSCに入って、1年目から芸人になってみよう!」 ~2020 in summer~

そこからは早かった。
秋前に上司との前期FB面談、親会社に出向に行かないかいという提案をいただいた。ずっと行きたかったが返事はNO.
面倒を見て育ててくれた上司の労力をムダにはしたくなかったので、上司には芸人になるとは言えなかった。
大阪でデザインの勉強をしに専門学校に進学しますとお伝えし即了承、即日担当役員にその旨を報告。
「後悔無いようにやりたいことをやるべきだ」と背中を押してくれた。

仲の良かった同期にも、家族みたいな寮生にも全部伝えた。

12月のNSCの入学面接、もちろんほぼ100%受かるのだが緊張した。
合格通知が届いたときは、実はもう一回悩んだ。
けど早いうちに断ち切った退路のおかげで、50万円を振り込めた。
めちゃくちゃ怖かったけど、たぶん間違えてなかった。まだ分らんけど。

0-⑦.シノヘの理由

実はまだ親にも言えてない、妹Bには偶然バレたけど自分で言いたいから言わないでと伝えたら、秘密にしてくれている。感謝だ。

親に言えていないから本名で活動できない。
そんなだけの理由で、芸名はカタカナでシノヘ

早く言えたら、帰省のたびに冷や冷やせずに堂々とできるのに。
がんばれ!シノヘ!!


マジでこんなん読んでる暇あったら、町のごみとか拾ったほうがいいよ!
みんな、時間を大切にね!!

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